海原のキューピット2
議場に集う者は皆、紺、茶、橙様々な色のトーガを羽織り、神妙な面持ちで集っていた。蜜蝋に光が灯されたシャンデリアが、高い天井のあちこちを暖かく照らす。一方で、議場に集まった議員たちは、冷めた目つきで各々の正論を飛び交わす。決して強い言葉を放たず、しかし威圧感のある遠回しな言い回しで、各々の意見を述べていた。
高い天井には美しい絵画が見られる。天井を支える梁に沿って、一つ一つ聖典の場面が描かれていた。女神カペラの結婚は、カペル王国のある北西へと伸びる梁を跨いで描かれる。北には工作の神ダイアロスが冠を作る様子が描かれ、月桂冠のカペラが顔を覗かせる。北東に伸びるのは雷を担いだオリヴィエス神であり、厳つい表情で荒れ狂う空に指を突き立てる。雷雲は轟きながらカペル王国のある方角へと伸びている。彼の指先から漏れた暗雲は、東に伸びる梁を跨いだ絵画にもみられる。弓を片手に持った若く逞しい男が、岩山の頂上から雷雲を覗いている。遠くの雷雲を迎えるのは、エストーラの守護神である、軍神オリエタスである。中央の針が交錯する部分には、円形に切り取られた空間がある。そこには人型の輪郭を持った光が、手のひらを上に向けて佇んでいる。光の主、西方教会の主神である、ヨシュアを象ったものだ。ヨシュアの周囲には天使が舞う。その背後には、白い大理石に彩色された幾何学文様が象られた神殿がある。光の輪郭によってぼやかされた青空と同様、白い神殿は霧に隠されたようにぼんやりと描かれている。そして、南側、議長の座席の真上には、聖典を掲げた獅子が描かれ、そのそばには、聖マッキオが佇んでいた。
議長席に座するのは元首、ピアッツァ・ダンドロである。彼は、各々の意見に顔を顰めたり頷いたりしながら、自身の目の前にある廊下を挟んだ左右それぞれにまんべんなく意見を仰いでいた。
「ドージェ、ちょっと宜しいですか?」
線の細い皺だらけの顔をした男が耳打ちをする。ダンドロは耳を貸し、何度か頷くと、姿勢を正した。
「……わかった。世話をかけたな」
皺だらけの顔をした男は、丁寧に頭を下げる。ダンドロは一口水を飲む。口を湿らせると、一つ咳払いをして、会議を再開した。
ピアッツァ・ダンドロは勤勉で勇敢な賢者である。一際愛国心が強く、元首となった後も、自国の生命線を維持するために、度々アルセナーレへと視察に赴いている。彼は、能力の高い人間は積極的に採用し、彼らは外務館として、国家の安全保障に貢献している。逆に言えば、能力の低い人間はすぐに見限る。それが、たとえ親族であろうとも、である。
久しぶりの帰宅に、ピアッツァはなんとなく襟を正して家に入った。まるで敵地に赴くかのような険しい表情をしながら、静まり返った中庭をぐるりと見回す。光のない空の色に合わせて、青く暗く草木を
見回す。彼は一つため息をつくと、息子であるエンリコ・ダンドロの部屋へと向かった。
一歩歩むごとに、階段が軋む。急な階段を上ると、回廊が顔をのぞかせる。彼は迷いなく、未だにほんのりと光が灯っている部屋をノックした。
「……はい」
「私だ」
そう言うと、立ち上がる音がする。何者かが小さな窓の前に立ち、蝋燭の光が遮られる。その男は鍵を開け、ドアを開く。少し幼い印象のある、背の高い男が顔をのぞかせる。眼鏡をかけ、無表情で頭を下げる。
「父上?お帰りなさい」
「あぁ。……仕事か。お前には苦労をかけるな」
ピアッツァは目だけで部屋の中を覗く。部屋の中には、大量の書籍が積まれていた。机には、棚をひっくり返したような大量の資料があり、雪崩が起きないようにぴっちりと端を揃えられている。エンリコは口角をつり上げる。
「いえ、仕事ですから。議会の方はまとまりそうですか?」
ダンドロは首を傾げて困ったように笑う。
「今回のはちょっと議題が割れていてね。排他的ではないんだが、奢侈禁止令というものは難儀なもののようだ」
ピアッツァは、手頃な椅子に座る。エンリコは仕事を続けながら、穏やかな口調で続ける。
「それはそうですよ。経済が滞るんじゃないかとか、お洒落ができなくなるんじゃないかとか、懸念はあるでしょう」
エンリコは蜜蝋の火を見ながら、自嘲気味に笑った。
「胸元をみせすぎる娘が多いことが問題なのであって、別に奢侈品目を厳しくする気はないと言う趣旨のようだが」
ピアッツァは腕を組んで低い唸り声を上げる。エンリコは資料の山に軽く手を乗せた。暫く沈黙が起こり、パンを走らせる音が目立つようになる。エンリコが椅子を引こうとした時、ピアッツァは腕を組んだまま前屈みになる。
「そう言えば、フェデリコがいないな」
エンリコは動きを止める。彼は、いつも通りの笑みで答えた。
「さぁ……?最近遅いですよ?」
「挨拶回りか」
エンリコは短く「はい」と答えた。ピアッツァの険しい視線に、涼しく鋭い視線を返す。口元だけが緩んでいた。
がさり、と資料が崩れる音がする。エンリコは反射的に右側の手を出した。蝋燭の炎が、その風圧で揺れる。
「そうか。エンリコ、帰ってきたら私の部屋に来るように言っておきなさい」
ピアッツァはカレンダーを確認しながら言った。エンリコは先ほどと同様に、穏やかな笑顔で返した。ピアッツァは黙って立ち上がり、部屋を後にする。エンリコは、小さな窓を持つドアから後ろ姿を眺めながら、白紙の紙を取り出した。




