海原のキューピット1
カルロは唖然とした。家に帰ると、困り顔のカタリーナが猫を抱くチコと一緒に空を眺めていたのだ。カルロは何度も瞬きをし、目を擦って確認する。意味も分からずに歩幅を小さくし、ばれないように忍び足で近づく。黒猫がぴくりと耳を立てると、カルロは背筋を伸ばして停止した。
空は昨日とは違って機嫌の悪い様子で、カタリーナの表情も同様に曇っていた。別に隠れる必要もないのだが、カルロは展望台の隅で縮こまり、耳をそば立てる。
「ほほぅ、人間関係の悩みですな?お嬢さん」
「えっ、なんで、そんなこと……」
(あんたは占い師か何かか……!)
カルロは言葉を殺して表情で突っ込む。険しい視線を送っても、猫もチコもうんともすんとも返事をしない。カタリーナはモイラに勧められた椅子に腰かけ、金髪を耳に掛けた。チコはニヤニヤと笑みを浮かべながら、目の前の美女の胸元を凝視して目を細める。カルロは衝動的に飛び出しそうになるのを堪えた。
「わかるとも、星の巡りは歪な生の輝きでもあるのさ。魔術師は深淵の叡智を見、錬金術師は真理の叡智を覗くが、天体博士は彼方の夢を廻るのさ」
チコはロマンチックな文言をまくし立てるように、下品に放つ。視線は胸元のままだが、ゆっくりと舐めるように見ているものが、胸なのか首飾りなのかは判然としない。これに騙されたのか、カタリーナ嬢は目を瞬かせ、前のめりになってチコに詰め寄った。
「あの、では!私の心のざわつきの正体は何なのでしょう?あの人は、盗っ人だと言うのに……!」
(何やらかしてんだあいつ!)
カルロは苦虫を噛み潰したような表情で激情を抑えた。展望台にはニヤニヤと笑うチコがいるだけである。
「何を盗んだのかな……?」
チコはわかりきった答えを聴くように、カタリーナの鼻先を軽く指で抑えて尋ねた。
「ハンカチです。お金のない人じゃあありませんのに、どうして盗まれたのでしょうか?」
「ハンカチ?ハンカチと申しましたか!そりゃ、もう、貴女は抱かれるべきではないかな!」
チコは下心を堪えきれず、前のめりになってカタリーナに詰め寄る。カルロが目を凝らすと、自分の胸の先を抑えていた。カルロは衝動的にチコの顔を叩きたくなるのを堪える。
「どう言うことですか?チコ先生」
「ハンカチを盗まれたのだろう?つまりそれは、行動通りの意味じゃないか!」
チコは興奮気味に言う。カタリーナは怪訝そうに眉を顰めた。カルロも意味を解することができず、首を傾げる。
空は分厚くなった雲で隠され、激しい雨を降らせている。チコが椅子を引く。モイラが紅茶を注ぐ音が響く。
「ウネッザにおいてハンカチを盗むと言うのは、愛の告白なんですよ」
モイラの言葉に、カタリーナは驚愕する。カルロも部屋の片隅で同じ反応をした。チコは大仰に笑い、紅茶に砂糖を放り込む。彼女はカチャカチャと節操のない音を響かせて、スプーンでかき混ぜているらしい。
「そう、そう。ハンカチはシルク製が多いからね、これを盗むことは重罪だ。つまり、「今の地位がどうでもいいくらい、君のことが好き」と言いたいと言うことさ!」
(普通にハンカチを送ればいいだろ……)
カルロは心の片隅で思ったことを押し留め、カタリーナの方を見る。
彼女は胸元に手を当てて、呆然としていた。しばらく硬直した後、彼女はハンカチを探るような仕草をし、やはり見当たらないことを確かめると、目を瞬かせた。
「どうして……?」
チコは席を立ち、大海原を一望できるガラス前に立った。海には濁流が打ち消しあい、空からは雨が降る。激しく打ち付ける風にガラスが悲鳴をあげた。
「愛とは、神の悪戯、或いは悪魔の囁き。理屈ではないのだよ、少女よ」
カルロの足元に黒猫が寄ってくる。カルロは黒猫を優しく持ち上げると、出て行かないようにお尻と脇の下で抱きかかえる。猫はぷらぷらと尻尾を揺らしながら、短く「にゃあ」と鳴いた。
「愛……」
カタリーナは顔を伏せる。チコがニヤニヤとしながらカルロの方を向いて、ウィンクを飛ばした。カルロは思わず背筋を凍らせる。それに伴って、抱き上げた猫の体温がカルロの腕に強く伝わってきた。
「有難うございます、勉強になります、チコ先生」
チコはカルロの方を見たまま、カタリーナに手を振る。チコは一気にぬるくなった紅茶を流し込むと、そのまま立ち上がり、立ち去っていった。
去り際にカルロと彼女の目が合う。彼女は、どこか怒ったような、覚悟したような印象のある凛とした目をしていた。会釈を交わし通りすぎると、髪が靡き、花のような残り香が優雅に香る。カルロは猫を抱き上げたまま、しばらく後ろ姿を追いかけていた。
更新遅れて申し訳ありません。次回も普段と比べると時間を頂くかと思います。ご了承下さい。
 




