埠頭にて
「フェデリコ?何だか今日は張り切ってるねぇ」
兄さんは僕の服装を見て言った。いつも服に気を使って遣っていないわけではないのだが、他の人からは少し浮いているのかもしれない。
兄さんはいつも通りの聖職者か学生かと言った服装で(僕と同じで先生のところに通っていたので、間違ってはいないが)、服に似つかわしくない秘密帳簿を片手にパンを齧っていた。朝や夜の、人のいない時間にだけ見せる眼鏡姿はまさしく優等生と表現するのが相応しいもので、普段商館で仕事をこなす姿よりも、兄さんらしい。
一方の僕は、金襴とはいかないがそれに見立てた黄色い縁の服に、赤色の派手な上衣を着て、中は白のシャツを着た。ズボンは膝丈の半ズボン、その下に白いタイツを履いた。足元は手入れされた革の靴で、うっかりかかとを潰していないものを選んだ。
「うん、ちょっとね…」
僕は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。兄さんは咀嚼したパンを飲み込むと、ちょっと口元を持ち上げて見せる。
「似合ってると思う」
いつも通りの優しく抑揚の少ない声だった。僕は何となく嬉しくなり、兄さんはそれ以上の言及はせず、秘密帳簿に視線を戻した。
朝の陽ざしは中々良好で、瑞々しい空の色と魅力的な風の音が窓越しにも感じられる。運河側に位置する食堂の窓には、今日も光を反射する大運河が臨める。
僕は兄さんの隣に座り、食事をする。金持ちの食卓など自慢話にしかならないが、我が家は敢えて質素な食事が多い。勿論、茹でて、焼いて、煮た肉料理などといった金持ち専用のような料理も出るが、客人がいなければパンと塩漬け野菜、精々が焼き魚位だ。金持ちなりに質素な暮らしをする我が家では、パンを齧りながら秘密帳簿を睨む兄さんの姿はそれなりの頻度で見ることが出来る。今日もそれにもれず、帳簿はサクサクと捲られていくのに、食事は殆ど進んでいなかった。僕は小麦のパンを水で流し込むと、さっさと立ち上がる。
「ご飯を食べた後は?」
兄さんは視線をそのままに呟く。僕ははやる気持ちを抑え、兄さんに向けて手を合わせた。
「頂きました」
兄さんが秘密帳簿を捲り、口元を緩ませて一言「行ってらっしゃい」とだけ呟いた。
「行ってきます!」
僕は高鳴る鼓動はそのままに、食堂を駆けだした。
海に浮かぶ都、ウネッザ、異国情緒あふれるトーガの人波、白と極彩の入り混じった街並み、褐色の長い髭を湛えた男が、白い肌の男と歓談する。石製の橋が迷宮を繋ぎ、下を見下ろせば黒い船が通り過ぎる。水気は切っても切れないが、旅人たちは大いに目を輝かせる。僕は潮風を受けながら、ぼうっと海を眺める彼女に駆け寄った。
「カタリーナ、さーん!」
埠頭に立ち尽くす女性はふり返る。太陽が霞むほどに滑らかに光を映す、印象的な白い肌、煌びやかな海が似合う、胸元を隠した白いドレス、ヒールは高すぎず、コルセットのいらない健康的な腰の細さ、僕はそれらを一斉に視界に捉えた。道行く人は潮風になびく金髪にふり返り、鼻の下を伸ばす。彼女は僕を認めると、おっとりとした笑顔で手を振った。
「お待たせしました、ごめんなさい!」
「いいえ、綺麗な海を見ていると、時間を忘れてしまいそうです。本当に、綺麗な町ですね」
彼女はいじらしく微笑み、右手で髪を整える。僕は思わず身震いし、その……それが立ち上がるのを隠すために前で手を組んだ。真っ赤になった僕の顔を見て、彼女は首を傾げる。空の青が、彼女の首筋に切り取られる。
「そ、それにしても、いい天気ですね!星見にもちょうどいいや!」
「星見……?」
彼女は首を傾げる。僕はオーバーヒート寸前の頭で、言葉を詰まらせながら説明する。
「天体観測ですよ、天体観測。僕もよく先生と……」
先生と……。僕は言葉を詰まらせる。
彼女は風になびく金髪を押さえながら僕の言葉を待った。僕は興奮が冷め、思わず顔を強張らせる。
風の音が虚しく、酷く強く響く。赤の上衣の裾が風になびく。満天の星空が懐かしくなり、何かが突然頬を濡らした。
「先生と……よく、星を見たんです。天体の博士で、僕の事、ちゃんと、分かってくれたんです」
「まぁ、天体の博士さんだったんですね。詳しく、聞かせてください」
彼女は埠頭の縁に座り、海側に足を投げ出す。そのしゅっと伸びた背筋が育ちの良さをよく表している。
僕は我に返り、服の裾で涙を拭き、誤魔化しの笑みをこぼすと、彼女の隣に胡坐をかいた。両手で爪先を掴み、踵を軽く合わせる。
海鮮の生臭い臭いと、海と空の青に挟まれる、彼方のちっぽけな帆船を眺める。ガレー船の護衛が離れた帆船は、酷く心許なく、ぷかぷかと北風に揺られている。
「博士は、凄い人なんです。頭がよくて、奢らなくて、ちゃんと、僕なんかを見てくれた。初めて会ったのは、凄く小さい頃で、父に手を引かれて足のない若い博士と挨拶したのを覚えています」
彼女は興味深そうに小さく頷きながら、海の彼方のガレー船を見る。揺れる金髪の一本が僕の肘に軽く当たると、左の手でそれを収める。目一杯に潮の香りを吸い込む横顔は、とても楽しそうだった。
「いつだったか、家出をした時だったかな……。博士は、戻るに戻れずに路頭に迷っている僕を教会の展望台に連れて行って、天体の話をしてくれました。そのあと、父上に大目玉食らったりしたんですが、それから、毎日教会の展望台に通って、夜には星見をして……それから……」
気づくと顔が綻んでいるのを自覚した。同時に瞳が潤んでくる。潮風が攻めてくるので、僕は目を閉じ、服の裾で潤んだ瞳を拭った。彼女は目を細め、少し大きくなった帆船を追いかける。声が震えているのを理解したのか、彼女は僕の言葉を待ってくれていた。
「その頃、まだ外での商売に忙しく出かけていた父上は、兄さんを連れて外海に出てしまうことが多くあって、それで、ですね……。母上は騎士様に夢中で、あ、今も夢中なんですが……僕、居づらくって」
「騎士様……?」
彼女は首を傾げた。僕は外の事はよくわからないが、外には騎士様がいないのかもしれない。
「奉仕する騎士様ですよ。夫が不在の時に、妻の相手をしてくれる男性です」
「……そうなんですか!」
いまいちピンと来ていない様子だったが、彼女は微笑んで返してくれた。いじらしい笑みに、僕は火照った顔を伏せた。一方で、僕は悲しみをぶつ切りにされて複雑な気持ちになりつつ、前かがみになって当時の事を思い出していた。
「星の観測と計算の事を博士は教えてくれました。それからも、毎日通って、僕は過ごしてきたんです。先生がといるときと、空を見るときと、自室で計算をするときだけは、僕は他の事を気にしないでいられました」
彼女は頷きながら気持ちよさそうに目を細める。彼女の様子を見て、僕は先ほどまでの悲しみとは少し違った感情が湧き上がるのを感じた。唇を湿らせ、目を伏せる。暫く口を半開きにして黙った後、僕は空を見上げた。
「最近、死んじゃったんです。駄目ですよね、僕。上手く整理がつかなくて」
機嫌のいい空の色は朝と変わらずにそこにあった。これが満天の星空だったら、そう思うと自然と涙が零れた。
「私、お家から抜け出してここまで来たんですよ」
彼女は遠くを見ながら言った。僕は彼女の横顔を見る。唇は上向きだが、儚げに眉を少し下げ、睫毛を海の方に向けている。
「え?」
「私、本土の方からこっそり船に乗ってきたんです。だって、外に出られないのだもの。私だって、どんな素晴らしいものがあるのか、知りたかったんですよ。皆が羨むような豪邸にいても、風のにおい、空の色、町の賑わい、遠くの鐘の音は肌で感じられないじゃないですか。だから、抜け出してきたんです」
僕は瞳孔を開く。目一杯、瞼を開けて、その横顔を注視する。彼女は右手でそっと髪の毛を耳にかけなおし、こちらを見て困ったように笑った。
「なんだか、フェデリコさんって、私みたい」
二人の間を煩いぐらいの風が吹き抜ける。はるか遠くにあったはずの帆船は、運河の入り口に差し掛かって、悠然と帆をはためかせていた。




