国民投票って?
カルロは悶々とした気持ちのままその日の業務を終えた。仕事内容は普段と変わらない大したものでもなかったが、広がる曇天と大粒の雨、それにカウレスの普段よりもなお鋭い視線などに困惑を覚えていた。
波は相変わらず不機嫌で、アルセナーレで待つゴンドラ乗りも去ってしまったらしい。カルロは仕方なく細く入り組んだ陸地を進むことにした。海を渡れば明るく心躍るウネッザだが、陸地は並び立つ家々の為に途端に陰気な裏路地を進むような気持にされられる。
リオート広場でさえ薄暗い場所があるのに、こうも家々が連立しては気も滅入るというものだ。まして、日の当たらない雨の日となれば、人間が自然に抱く不快感を一通り網羅した、陰鬱な風景となり替わってしまう。迷わず進めるのは町人だけで、迷宮のように入り組んだ道を進まざるを得ないのも、不安に拍車をかける。
カルロは溜息を吐くと、上衣で頭上を覆いながら、早足で教会への道を急ぐ。
改めてカルロが感じたのは、ウネッザの高い湿度だった。潮風の冷たさは時に優しくもあったが、湿度と言うものは中々の曲者で、服もコッペンのようにうまく乾かない日が多く、雨が降れば途端にもわっとした湿気が異臭のもとになる。
カルロはそんな嫌な湿気の中で街並みを眺める。道端にはベランダの突起を利用してお利口に雨宿りする犬や、家と家の隙間で丸くなる猫が目立つ。やがて普段は両替商で賑わう広場に出る。ここからはマッキオ教会の鐘楼がよく見える。カルロは狭い隙間からその雄姿を見て方角を確かめると、次のラグーナへ渡るために石組みの橋を渡る。ふと水位の上がった川を見れば、海からの余波が濁流とぶつかり、大層悍ましい。
カルロはコッペンで大雨の為に水車が壊れたときの事を思い出す。その際、幼い彼は粉挽きの石臼が機能を停止し、麦を手で砕かされた。麦を挽く際の石臼の重さで筋肉痛になり、暫くはパンを持ち上げるのも苦痛だった。この時初めて、「麦の量が減る」と文句を垂らしていた彼を含んだ村人が、水車小屋の主人に対する感謝の念を抱いたものだ。川の濁流に恐れをなしつつも平然としていられるのは、そう言った緊急事態をある程度経験したカルロの特技でもあった。橋を渡った広場から再び狭い路地に入ると、教会の鐘楼が隠れてしまった。
靴に染みる雨水がいよいよ飽和する頃、狭い路地を抜けてマッキオ教会がいよいよ近づいてくる。教会は依然整然と白い大理石を纏いながら威勢を保っており、今は出入りするものもないウネッザの船を待ち構えている。カルロは波打つ際に堂々と威勢を保つそれを見て、目を奪われなかった自分に驚く。何よりも、自分がそこに住んでいるという事実が不相応に感じられる。
カルロは雨の大気に濡れた扉に手をかける。重く手にのしかかる重厚な扉を開けると、仄暗い礼拝堂の中に蝋燭の火が数本揺れていた。彼は、耳に届くのは聖典の一節であり、やはりこの場に不相応なカルロは挨拶をしてそそくさと階段をのぼっていった。
空が降るような透明の天球に、雨が打ち付けている。その中で一番見晴らしのいい観測地点に、仲睦まじく戯れる黒猫と女性がいる。カルロは、小さくため息をつき、彼女たちに近づいた。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま帰りました……。飼うことになさったんですか?」
カルロが訊ねると、チコは黒猫を抱きかかえながら答えた。
「可愛いだろう、猫ちゃん!もう可愛くてさぁ!うちの子が一番っていう飼い主の気持ちがわかるよねぇ」
(親馬鹿……)
カルロの呆れ顔を気にも留めず、チコは猫の右前足を持ち上げ、「よろしくニャン」と言った。カルロは足蹴にするのもなんとなく憚られ、「どうも」と答えておく。猫はその姿勢が不服だったのか、蕩けきって間抜け面になったチコの手を振りほどく。そのままモイラのよく使う台所へと消えていった。
「浮かない顔だね、カルロ君。何かあった?」
チコは黒猫の抜け毛を払いながら訊ねる。カルロは暫く答えに戸惑い、少し考えてから、当たり障りのなさそうな所から聞くことにした。
「職場で投票が云々って言ってたので、何かなぁ、と」
チコはカルロの本当に聞きたいことが別にあるらしいことを察したのか、姿勢を正す。
「そっかぁ、君は本土の人だからね。知らないんだ」
チコは雨で歪んだ空を眺める。何度か頷いたあと、カルロに向き直った。
「ウネッザは共和制を採っている。つまり、政は国民の投票によって決まるんだけどね。ちょっとだけ、面白いんだ」
「面白い?」
カルロが聞き返すと、チコは猫の毛を束ねて指に絡める。
「徹底してるんだ、投票からね」
カルロは首をかしげる。チコは指に絡めた毛をくるくると巻き、絡まり合った毛を指から引っこ抜いた。毛は指輪のように輝いている。
「まずは国民の中から推薦者をランダムで100人決める。次にその推薦者が7人推薦者を決め、その推薦者が投票者を7人決める。合計4900人の投票者が、議員の指名者に投票する。貴族はまた別に、同じように指名する。15、7、7で735人。300人の指名者―貴族側から100名、全国民側から200名―が議員を決める。ここで承諾した者300人が議員となり、その中から元首を決める。元首と議員は、議員の中からそれぞれ五名の特別委員を指名し、元首が暴走することを抑えるために設けられている監査官三名と、自分とその指名者で構成される委員会を設ける。これが、国家の重要事項を決める「十人委員会」だ」
チコは黒い指輪を潰して毛玉にし、ゴミ箱を探している。カルロは部屋の隅にあるゴミ箱を差し出す。チコはにこにこと笑いながら毛玉を放った。黒い石のような塊が、薄暗いゴミ箱の縁に乗った。
「なんか、めんどくさいですね」
「面倒だけど、一人の人間への権力の集中はほとんど生じない。まずランダムだからね。十人委員会は一つの家からは一人しか出席できないし、尊名中の聖職者が家にいると、その家系は議員を出せない。貴族すら直接の指名権がないというのは珍しいよね」
カルロは思索を巡らせる。共和制自体はこの周辺では珍しい政治体系ではない。君主制の方がわかりやすく、国民も楽である。しかし、共和制は専制を防ぐことができる。基本的に、共和制では政治は安定するが、緊急事態には弱い。
しかし、元々は君主国であったコッペンで生まれたカルロはには、少なくとも魅力的に映った。君主制には君主という明確な正義が存在し、逸脱することは許されない。しかし、その基準が悪くなければ、非常に「強い」政治体制と言える。
一方で、共和制は非常に「判断の遅い」政治体制であるが、比較的暴走が生じにくい。ウネッザは、共和制の中に専門家集団を一定数設けることによって、弱みを補ったのだろう。
カルロは、徐にチコの隣に座る。不機嫌な空を見上げながら、深呼吸をした。
「めんどくさいけど、面白いんですね」
「そう、面倒で面白いのさ。「政治」としては正しく、「国家」としては脆い。だから、今の元首が如何に優秀かもわかるだろう?」
「元首……あっ……」
ピアッツァ・ダンドロという男が、カルロの脳裏に浮かぶ。そして、カウレスの言った言葉の意味も、遠回しにだが理解した。
「……ウネッザの民は国家の構成員としての自覚と誇りを持っている。そして、国家の繁栄、即ち自国民の繁栄のために、税も払うし兵役に貢献もする。貴族もあまり差がないから、彼らはとても紳士的だ。それ故に、本土の君主たちからは気味悪がられるんだろうね」
チコが視線を向けると、カルロは自嘲気味に笑う。
船の往来がない運河に雨が落ちると、それを飲み込んだ波が微かに揺れた。雨の一つ一つが、海と一体化していく。天球は、その玄関口を余す事なく映していた。




