鍋と熱
夜も深くなると、ウネッザの街路は一層暗くなる。夏の湿気でもやのかかった街並みも恐ろしいものだが、闇の中を小さな灯りを頼りに歩く事ほど恐ろしいものはあまりない。自分の心臓の鼓動が微かに伝わる程の深淵と静寂の中では、一歩一歩もより大きく、速くなる。
リオート橋は観光名所の一つになっており、巡礼者たちが異教の地へ旅立つ前の暇潰しとして利用する。日中は金貨袋を抱えて茣蓙に腰掛ける男達が群れをなす橋の上も、教会の鐘が鳴った後には寂しい石の道に成り代わってしまう。
僕は周囲を見回し、使い古した車輪が壁に立て掛けられた建物の裏口をノックする。顔を出したのは人好きのする男性だ。彼は目深に被ったフードの中から覗く僕の顔を窺うと、わざとらしく丁寧に頭を下げて、僕を扉の中へ誘った。
暖炉では服を乾かしているらしく、ばちばちと音を立てて炎が揺れていた。主人は一つ咳払いをして、給湯室を指差した。僕は頷いて、給湯室へ向かった。
夜の廊下は床の軋む音がよく響く。一歩踏み出すごとにきぃ、と鳴く床に合わせて、僕の心臓の鼓動が高鳴る。息が苦しくなり、首を振って感情を整えると、仄暗い廊下の向こうに一筋の明かりが漏れていた。僕はその中を覗き込む。綺麗な後ろ姿だった。
「……?あぁ!この前のお方!奇遇ですね!」
ふわりとドレスを持ち上げる。この可憐なしぐさが、これほどよく似合う人がかつていただろうか?
「こ、こんばんは。えっと……お名前は?」
内心ガッツポーズした。高鳴る鼓動は益々元気になり、何とか顔も綻ばすことができた。彼女は微笑み返してくれる。
「カタリーナ、と申します」
彼女はそう言って湯を沸かす。毎度のことながら湯を沸かしているが、何か理由でもあるのだろうか。そんなことを思っていると、カタリーナは沸かした湯を持ち上げた。チャンスだ!
「熱くないですか?持ちましょうか?」
僕がそう訊ねると彼女は一瞬驚いたように硬直し、暫くして微笑んで返した。
「有難うございます。でも、ミトンもありますし、大丈夫ですよ」
彼女は首を傾げて笑う。床が振動するような興奮に、それ以外のものが見えなくなる。彼女は鍋を持ったままスタスタと立ち去っていった。
「あ、あ!待って、待って!もうちょっと!えーと、もうちょっとお話しませんか!」
僕は必死に駆け寄る。彼女は振り返ると、首を傾げてみせた。
「えっと……?」
「あ、ああああああああ……!」
緊張のあまり出た奇声が廊下にこだまする。彼女は当然困惑の表情だ。
やってしまった。興奮と絶望で視界が暗転する。白く発光するような彼女の姿が霞んでしまう。僕はあわれに頭を掻きむしった。
「元気な方ですね!元気なのはとてもいいことです」
彼女は変わらず笑ってみせた。鍋の湯がチャプチャプ鳴る。彼女の背後から後光が差すように、仄暗い廊下の景色が徐々に鮮明になる。冷たい白い壁も、照明でオレンジ色に染まっている。僕は耐えきれずに吃りながら尋ねた。
「博士みたいだ……」
「ハカセ……?どなたですか?」
彼女は素直に訊ねる。僕は暫く呆けた顔のまま彼女を見つめていたが、我に返って首を振る。
「先生士は、僕の大事な人です。すごく、凄く賢い人なんですよ!」
鍋から立つ湯気を見て虚しくなった。先生はもう戻って来ないんだ。湯気と同じく霧散してしまった。笑顔がひきつり、胸の高鳴りが死んだように止まった。
「……亡くなっちゃったんですが……」
固まった僕を見て、彼女は優しく目を伏せた。湯気が陽炎のように揺れる。目の前の彼女を「湯気が」歪ませる違いなかった。
「その人のこと、お話しして欲しいです。今日はちょっと遅いので、明日、お休みでしょう?会いましょう」
彼女は聖母のように微笑んだ。僕は再び脳が蕩けるような熱を帯び始めるのを感じ、ショートしそうな頭を巡らせて、必死に言葉を選んだ。
「お鍋!お運びします!」
僕は彼女の持つ鍋を受け取る。鍋は取っ手までしっかり熱が伝導している。彼女はいじらしく笑い、「お願いしちゃいましょうか」と手を離す。僕は脳まで頭からつま先まで伝わる鍋の熱量に驚き、彼女の後ろを追う間の事を、殆ど覚えていなかった。
 




