エンリコ・ダンドロと言う男1
カルロは思わず息を呑んだ。ライオンの檻に放り込まれた兎のように、恐怖の様なものさえ感じた自分に驚く。
エンリコは涼しい笑みはそのままに、目を細める。重厚な黒檀の椅子、真っ黒な本棚に並ぶ分厚い書籍の数々は、博士の部屋を思わせる。所々に救いを求めるような溶け切った蝋燭のかすがある。それを溜めたままじっとしている燭台は、こびりついた蝋で光沢を持ち、ずっしりと重い鉄の黒が、机上の燭台の明かりをぼんやりと反射させる。窓側を見れば牢獄のような狭い部屋に巨大なベッドがあり、圧迫感を与える。外観からはあれだけたくさん確認できた窓は小さな一つしかなく、泥の様に漂う暗い運河が覗けるだけだった。
「どうぞ、かけて」
エンリコはカルロに簡易の椅子を勧める。カルロは圧迫感のある什器たちに戸惑いながら、言われるがままに腰かける。エンリコは右手を動かしながらそれを確かめると、再び机に向き直る。彼は小さくため息を吐くと、周りを見回すカルロを見ないで続けた。
「ごめんね。ちょっと、仕事があって手が離せなかったから……」
「いや、大丈夫だけど……。この部屋、凄いな……。燭台がいっぱいあるし」
カルロはエンリコの周囲にある小物に目を凝らす。ぼんやりと部屋を照らす弱い蝋燭の明かり、手元を照らすためだけに作られた機械的なランプと、見たことのない羊皮紙をしまったキャビネット。重苦しい黒色が普段のエンリコの印象とはかけ離れている。
「あぁ、これね……。メイドさんが寝ちゃうとさ、どうしてもこうなっちゃうんだよね。海婚祭のことであちこちに手紙を出しているし、番をしてくれている下人は出払ってしまっているよ」
「こんな、夜中に……。大変だな」
カルロが素直な感想を述べると、エンリコは乾いた笑いで返した。
「ははは。そうでもないさ。力仕事はあまりないしね」
彼は筆をおくと、したためた書類を確認し、手元に置かれた砂を紙にまぶした。ざぁ、と波のような音がする。
カルロは今度は彼の手元の道具に目をやった。ペン立ては設置部分が銀縁となっており、今はオレンジ色に輝いている。立てられた羽ペンの羽はやわらかそうな白い海鳥のもので、先端だけが黒くなっている。羽ペンの先より一層黒いインク壺は少し離れたところに置かれ、ペンを取る際に邪魔にならないようになっている。ペン壺の隣にある空き瓶は濁った透明色で、ウネッザのガラスとは違うらしい。右手の最も奥に置かれているペーパーナイフは羊皮紙を削って修正するものだろう。完璧に整頓された机上を見ると、カルロは再び周囲の燭台に身震いしてしまう。
カルロが机上の作業道具に目をやっている間に、エンリコは壁に掛けた小さな箒を取る。彼は手際よく砂を箒で払い、箒で払われた砂は塵取りで集められ、インク壺の隣に置かれた広口の空き瓶に戻された。紙を持ち上げて滲みのないことを確認する。
「あのさ、今日は……」
「フェデリコの事だろう?」
エンリコは手紙を巻きながら答えた。カルロの用事を把握しているらしく、平坦な声だった。
「知ってたのか」
カルロが言葉を続けられずに呟くと、エンリコは乾いた笑いを返す。
「フェデリコは嘘が下手だからね。……とはいえ、完全に把握しているわけじゃあないよ。挨拶回りはちゃんとやっているみたいだけど、仕事を終えて帰るのがいつも遅い。日没には帰ってくるように言っているのに、聞かないというのは今までになかったからね」
エンリコは紐で羊皮紙を結い、籠の中に入れる。続いて新たな紙を取り出すと、判子の位置を一瞥して、ペンを取った。カルロが何から言い出すべきかを悩んでいると、急かすようにさらさらと文字を書く音が響く。尋問を受けているときのような緊張感に、カルロは息を呑んだ。
「……それで?彼は一体何をしているんだい?」
ユーモアの感じられない平坦な言葉の羅列。カルロは主人に報告を強いられた使者の緊張感が何となくわかった気がした。
「恋をしているらしい」
エンリコは一瞬筆を止める。体を少し起こし、振り返った。
「恋?」
「あぁ、恋だ。何というか、綺麗な人だったよ。本土の人だと思うけど……」
エンリコは鼻から息を吐くと、目を逸らして左手の肘をつき、頬を乗せる。
「成程ねぇ……。どうりで家でぼうっとしているわけだ……」
姿勢を崩しながらも彼の右手はしっかり動いている。
(彼からすれば、物凄くくだらない事なのかもしれない)
カルロは我儘なフェデリコの事を思い浮かべ、エンリコのあきれた表情に何かを察した。
「で、でも。今までは博士博士ってずっと一点張りだったじゃん。あれよりはいいと思うんだよ、俺」
カルロはなんとかフォローを入れる。エンリコは少し唇を持ち上げる。眉を顰めているため、逆光で怒っているようにも見えた。
「まぁ、その通り。やっと中の仕事ができるようになって嬉しいんだけどね。でも、君に迷惑をかけていないかい?彼はちょっと、我儘なところがあるからね」
(大分かかっているけどね……)
カルロは正直なことは言わなかった。エンリコは「そうだよね……」と溜息を吐く。彼はそのままペンを置き、椅子を引いてカルロの方を見た。カルロは呆気に取られていると、エンリコは深く頭を下げた。
「ごめん、また弟が迷惑をかけるかもしれないけど……手伝ってやってくれないかな?あの子がちゃんとした大人になるためのチャンスかもしれないから」
カルロはうなじが見えるほど頭を下げる彼に困惑しながら答える。
「いや、そんな!顔上げてくれって。……わかってる、博士にも言われたんだ。後のことは頼んだって」
エンリコは頭を上げる。安堵の表情を浮かべながら、「ありがとう……」と噛みしめるように言った。カルロは歯を見せて笑う。
「任せろって。俺だって、あいつの力になりたいから」
エンリコはカルロに手を差し出す。カルロは強く、それを握り返した。
「じゃあ。お礼に何か持って行ってほしいな。燭台が気になってたよね……?」
「あれは別にそういう事じゃないから!」
カルロは焦って答える。エンリコはいたずらっ子の様に無邪気に笑った。
「冗談だよ、冗談。この部屋は異様に映っただろうけど、また遊びに来てくれると嬉しいな。話し相手がいないとつまらないんだ」
「あぁ!」
二人は握手を済ませると、互いに目を合わせて微笑み、エンリコは再び席に戻って作業に戻った。蜜蝋まみれの燭台は、黙って二人を見下ろしていた。




