星を見る老博士
教会の中は酷く暖かく、カルロは潮風の当たらないことに不意に涙が零れそうなほど感動した。入り口のすぐは礼拝堂になっており、小さな天窓から覗く月光が祭壇を照らす神々しさは、名状しがたいものであった。ステンドグラスのために微かに色を移す床には、幾つかの棺が納められ、その蓋には歴代の元首を出した名門の紋章が記されていた。
祭壇には旅と商いの神マッキオが祀られる。手には伝令を携え、棒に包みを括り肩にかけ、上を向く。方角は北向きであり、星の巡りを見ているのだという。主神ヨシュアと共に並ぶ大神の一人に数えられ、神々の伝令を賜った伝承を持つ。棒の先に提げられたカンテラから微かに覗く骨が彼の遺骨、即ちこの教会の聖遺物だという。
祭壇に釘付けになるカルロに対し、先刻の老婆は手招きをする。彼は我に返り、彼女の後を追う。
老婆は祭壇から左手にある急な階段を燭台で照らしながら、ゆっくりとした動作で登る。カルロにはややもどかしく感じられたが、それでも急斜面を登る速度としては年相応というにはかなり健康的なものだ。時間をかけて登りきると、カルロは思わず声を上げてしまった。
満天の星空を写すガラス張りの世界が広がる。この世の技術とは思えない一面のガラス張りは、息を呑むほど強烈な星の光を受ける。宵の頃だと言うのに恐ろしく明るく、天の威容を伝えるならば何処よりも素晴らしい場所のように思えた。カルロは振り返る。教会のドームより若干高く、これも星を遮らない作りになっていた。教会の外観からは確認できなかったが、どうやら幾つかある塔の先端だったようだ。
老婆はその中央の人影に近づいていく。カルロはひとまず成り行きを見守るため、視線を向ける。老婆がバスケットの中身を手渡しながら、人影に耳打ちする。背もたれの高い椅子の向こうの顔は、星空へと向けられており、カルロからは認められない。老婆が何度か頷き、その場を後にする。老婆は満天の星を邪魔することがないように作られた螺旋階段を下りていく。カルロと人影だけが取り残される。階下からブリキを擦るような音が聞こえる。やがて月光を独り占めして座る人物は、カルロの方に椅子を回した。
「お客様だね。巡礼者たちからはぐれたのかな?」
彼はしわがれた声で言った。老婆と同じ年頃の老人だ。背は老婆よりも低く、足元まで隠す黒いトーガに身を包んでいる。髭も刈り、しっかりとセットされた髪は白髪交じりのグレーだった。月光に照らされて輝く髪は、卵白でセットされたものだとわかる。目は細く釣り気味で、分け目を器用に右目にかけて隠している。落ち着いた微笑は、ダンドロのそれと比べても一層思慮深く映り、賢者の様な風貌だ。カルロは首が振ると、老人は返答を促すべく眉を上げる。
「俺は、船を作りに来たんです。試験の為に一つ契約を取って来い、そう言われました」
「船?何故、船を作りたいんだい?」
螺旋階段を上がる老婆の足音だけが響く。小柄な老人の威容に気圧されながらも、カルロは前のめりになって答えた。
「はい。俺たちの命を救ってくれたのが、船だったからです」
「どういう事かな?」
「俺の故郷は、コッペン、と言う町でした。特にこれと言った産業のない、小さな農村です。この町は時折皇帝やカペル王国、内陸の共和国の間での争いに絶え間なくさらされてきました。俺たちがいま、こうしていられるのは、この町の船が、守ってくれているからだと、教わっています」
老婆が紅茶を淹れ、コップに注ぐ。星の光を目一杯受けた紅茶は白く輝き、まるで自ら発光しているように見える。老婆はまずカルロに勧め、続いてゆっくりとした動作で老人に同じものを手渡した。
「それだけではないね?」
カルロは俯く。暫くの沈黙の後、老人は紅茶を啜り、カップをソーサーに戻す。その音が、劇場の中にいるかの如くよく響く。カルロの返答を待つ老人の傍には老婆が優しい笑みで控えている。カルロは沈黙に耐え切れず答えた。
「……えぇ。でも、今は、言いたくありません」
「言いたくない理由がある、という事かね」
「……」
老人は溜息を吐く。紅茶を啜り、続けて咳払いをする。カルロに向けられた視線は温かなものだったが、彼だけには居心地の悪いものに感じられた。カルロから答えが聞けないことを察した老人は、肩を持ち上げて椅子を回す。
「司祭には僕が話を付けておこう。今日は休んでいきなさい」
「……はい。ごめんなさい」
「ごめんなさい?」
老人は椅子から少し顔を出す。
「有難うございます」
老人は満足そうに笑うと、再び夜空に視線を戻す。カルロは老婆に、客人用の寝室に案内される。彼が振り返ると、星の瞬きに照らされて目を輝かせる、老人の横顔が見えた。