恋は雀躍
「それは楽しそうだねぇ!はっはー」
「冗談じゃないですよ……」
チコは星見の特等席を独占し、膝に黒猫を乗せて撫でながら笑う。今日は観測には不向きな曇天で、夜に入ってからはしとしとと雨が降り出していた。カルロは先日からのフェデリコの件をチコに訊ねられ、隠すでもなく答えた。
「そうかぁ、でも、フェデリコ君にはいい薬かもね」
チコは手持ち無沙汰な記録用の羽ペンで猫と戯れる。羽が左右に動くのに合わせて、猫の視線が動く。尻尾をピンと立てて、時折羽ペンを叩く。いわゆる猫パンチと言うものである。カルロは構わず続けた。
「やっぱりそう思いますか?俺は勘弁してほしいんですけどね」
「恋は人を強くするよ、カルロ君。何せ付き合うという事は、自分の自由時間を捧げるという事なんだから」
チコは羽ペンを前足で弄ぶ猫を慈しみながら、静かに言った。
低い雲は今にも落ちてきそうにうねり、漂う。猫が飽きて伸びをして、チコから離れていく。チコは羽ペンを空で泳がせ暫く弄んだが、猫が戻るそぶりを見せないとわかると、諦めてそれをペン立てに戻した。
「人間は有限だ。ばかばかしいが、その自由を簡単に捨て去ってしまうほどに、本当に愚かだしね。フェデリコ君は第一歩を踏み出したんだよ。明日はお兄さんに会ってくるとといいんじゃないかな。えーっと、なんだっけ、名前」
「エンリコですね」
カルロが答えると、チコは楽しそうに手を叩いて笑った。「そうそう」と言ったきり、彼女は黙って空を見上げる。小さな雨粒は線となり、海面を揺らし、持ち上げる。彼女は物見台で満足そうに息を吐くと、暢気に床で丸まった猫を見つめた。
「きっといい話が聞けると思うな」
チコは人差し指を立ててウィンクをする。ニャー、と可愛らしい鳴き声がすると、チコは甘ったるい声で同じように返した。カルロは寒気がして、そそくさと部屋を後にした。
翌日、朝のうちに神父に伝言を頼んでエンリコに夜に会いたい旨を伝え、仕事を終えて帰ると、神父からエンリコの自室で会うことにしたいという言伝を貰った。カルロはモイラに事情を話し、博士の遺品からトーガとシャツ、長いズボンを借りてドージェの家へと向かった。
カルロは教会を出ると、先ずは暗闇に吹く冷たい潮風に身震いした。日中は騒々しいマッキオ広場も、深夜は人の往来もほとんどない。寂しげな広場と灯りのない元首官邸に、波打つ海の音だけが響く。カルロが客寄せの休憩に使った件のベンチは、夜の帳の中ではかすかに輪郭が確認できるくらいで、凝視しなければ確認できない。狭い街路の先などはもはや真っ暗で、カンテラを照らしながら、進むよりほかにない。
カルロはカンテラを左右に振りながらダンドロ一族の邸宅を目指す。元首官邸で寝る間もなく働くピアッツァ・ダンドロは多忙のため帰宅もなかなかできず、実質的な主人はエンリコと元首夫人であるという。
カルロは何となく迫り来る家々の壁を気に掛け、見覚えのある道へと近づいてくる。前方にリオート広場が遠目に確認できるようになると、右手に荘厳な壁が現れる。
「おぉ……ここか」
カルロは思わず立ち止まり、顔を上げる。白を基調としたウネッザの建物に違わず、大理石風の白い建物であり、リオート広場の周辺の色彩豊かな家々と比べると厳格な印象を受ける。建築技術の贅を尽くしてふんだんに窓を組み込んだ光の入り込む構造は、やはり貴族と唸らざるを得ない。束ねられたレースのカーテンが自己主張することなく窓の向こうになびく姿は、乙女が廊下を通り過ぎるようだ。
カルロは深呼吸をしてノックする。暫くすると使用人が顔を覗かせる。カンテラの光を受けて目を細める使用人が「用件は?」と訊ねる。カルロは緊張した面持ちで言伝の事を伝えると、使用人は中に消えて行く。暫くして再び扉が開くと、別の使用人が丁寧に挨拶を交わした。
「どうぞ、お入りください」
「失礼します」
カルロは頭を下げて中に入る。狭い回廊はウネッザらしく、中庭を囲んで光を切り取る。月光が中庭の植木鉢を照らすと、幻想的な斑のチューリップが植えられている。使用人はカンテラを手にぶら下げながら優雅な足取りで庭を半周し、階段を上る。三階まで上がり、中庭の植木鉢が土の色と同化する高さに至ると、静けさの中にぼんやりと光を放つ扉が一つある。
使用人は小さな窓付きのドアがある部屋をノックすると、中に入っていく。暫くして、使用人が改めて部屋から出てくると、部屋の中に頭を下げた。彼はそのままカルロの方に向き直り、後ずさりをして丁寧に頭を下げる。カルロも失礼のないように頭を下げると、使用人は優雅な足取りのまま帰っていく。
カルロは暫く使用人の後姿を見送った後、空いた扉の先に目を向ける。中には、ぼんやりとした優しい蝋燭の光に照らされたエンリコの後姿があった。
「失礼します」
「わざわざごめんね。ちょっと手が離せなかったから……」
エンリコは椅子を引いて振り返る。蝋燭の光が逆光になり、その優し気な笑みに妖艶な印象を与えた。




