リオート橋にて2
ぞろぞろと茣蓙を引く男たちが帰っていく中、暫く時間が止まったように向き合っていたカルロは、慌ててフェデリコの肩を掴む。フェデリコは焦点が定まらない様子でカルロの事を見つめた。カルロはその生気が吸い取られた表情にぞっとして、肩を揺すりながら訊ねる。
「おい、しっかりしろ!な?もうちょっと、頑張れ!」
自分でも整理が追い付かないカルロは、自分でもよく分からない激励をしてしまったことに驚く。
橋の上は潮が引くように一気に賑わいをなくし、両替商たちは訝し気に二人を見つめながらそそくさと店を畳んで去っていった。鐘の反響が収まると、カルロはやっと落ち着きを取り戻し、周囲を気に掛けつつ、フェデリコに耳打ちした。
「……こういうのは抱え込むのがよくないからな、その人のこと教えてくれよ」
フェデリコはぼんやりとカルロを見つめながら、そっと頷いた。
「とりあえず、場所換えようぜ。飯行こう、飯」
「お前、食ってるけど……」
フェデリコは虚ろな瞳でカルロの右手を見る。しっかりとつかまれたサンドイッチは、まだ柔らかく心地よい肌触りのまま保たれている。カルロはそれを一瞥し、ごまかしの笑みを零す。彼はそれを一気に放り込むと、咀嚼しながら話し始める。
「ぅ、む!大丈夫、大丈夫!俺それなりに食うし、腹減ってりゅっ、し!ぅん!」
「お前、大丈夫か……?」
(お前に言われたくねぇっ!)
カルロは必死に言葉とサンドイッチをを飲み込んだ。フェデリコは普段とはほとんど別人のようにおとなしく振る舞いながら、虚空を眺めるような目つきで頷く。二人は近くの大衆食堂へと向かった。
「それで……?どんな子なんだ?」
カルロはさほど空腹を感じていないまま、目の前にある魚の塩焼きを頬張る。彼の食卓には他に水、皿代わりのトレンチャー、そして薄い塩味の豆スープが置かれている。ウネッザで最も安価なフルコースであることは言うまでもない。
「なんか、ふわぁ、ってして、ぉぁぁ、ってなる感じの、かわいい娘……」
「……何も特徴がつかめないのがすごいな。まぁ、いい。なんで好きになったんだ?」
カルロはちびちびと塩辛い魚をつつく。食べられない量ではないが、如何せん目の前の事象に戸惑いを隠せなかった。フェデリコは手を一切使わずに銀のフォーク一本で器用に魚の骨を取り、魚を口に運ぶ。彼は咀嚼の間には次の一口を取っており、それをぽろぽろと零しながら飲み込んだ。
「わからん。何か好き」
(こいつ手に負えねぇ……)
「あ、今お前!手に負えないとか思っただろ!」
フェデリコは普段の調子を取り戻して、やや喧しいくらいの声で怒った。カルロは呆れつつも、ひとまずフェデリコを席に着ける。
周囲の視線がやや痛くなったが、暫くすると彼らにも食事が行き渡り、賑やかな夕食の様子に戻った。カルロは気を取り直してフェデリコに向き直る。フェデリコは癇癪は堪えているらしいが、そのせいで頬袋に団栗を詰めたリスの様にむくれていた。カルロはつい吹き出しそうになる。
「……いや、まぁ、恋なんて突然だよな、そうそう。そうだ、馴れ初めは?」
「あ、あぁ。馴れ初めね……。いや、今朝から博士の事で頭がいっぱいでさ……。仕事を兄さんに任せ続けるのもあれだから、気晴らしに散歩でもと思ったんだ……。それで、ほんの一瞬、目が合って……」
フェデリコはそこで押し黙る。カルロもやや関心を示し始めたところで言葉が詰まったことに違和感を覚える。暫くフェデリコが黙っているさまを見て、カルロは遠い目をした。
(あ、駄目そうだなこれ……)
カルロは遠い目をしながら話の続きを待つ。フェデリコはカルロが話を待っていることに負い目を感じ、声を細くして続けた。
「それ、だけなんだけども……」
「うん、まぁ、一目惚れなんてそんなものだよな。わかる、分かる」
カルロが遠い目をしながら答えると、フェデリコは唐突にカルロの肩を掴み、カルロの毛穴が見えるほどに顔を近づけた。
「なぁ、頼む!探すの、て、手伝ってほしいんだ!僕こういうの初めてで、だからちょっと……」
周囲の視線が一気に集まる。カルロは焦って両手でフェデリコを制止した。
「わかった、わかったから!そのお嬢さん見つけるの、手伝ってやるから!落ち着けって」
周囲の厳しい視線が途端に暖かなものに変わる。フェデリコはカルロを強く抱きしめた。
「あぁりがとう!お前いい奴だったんだなぁ!」
カルロはフェデリコの背中を軽くたたき、彼を落ち着かせる。野次馬たちがあれやこれやと話し合い、フェデリコの初恋相手が誰かなどと囁きあっている。店員がこっそり温めた牛乳を二人の机に置いて、ニヤニヤとしながら去っていく。
フェデリコは特に気に留める様子もなかったが、カルロは顔を真っ赤にして肩を狭めた。
「……それじゃあ、改めて、見た目だけでいいから教えてくれよ」
フェデリコはカルロの手を握り、強く上下に振りながら感謝の念を伝える。
「長い金髪の女性だった。育ちが良さそうだったな……。すれ違うと花みたいな香りがして、背はちょっと低いんだけど、肌も白くて、鼻も高い。眉は外下がりで、おっとりした感じ。唇は艶やかなんだけど、たぶんあれは口紅付けているから強調されているんだと思う。多分こっちの人じゃない」
「本土の人か……」
カルロが尋ねると、フェデリコは満面の笑みで頷いた。カルロはそれを確認し、心の中で溜息を吐いた。
本土の人間という事ならば、男ならば商売目的のほか、亡命や巡礼など、多様な目的が考えられる。女性の場合は、恐らく巡礼もとい観光に絞られる、と言うのがカルロの見解であった。
男性の地位が一際高い貴族社会において、女性はかなりの束縛を受ける。ウネッザでも同様であるが、基本的には外での仕事は男性がやるべきことであり、女性は家で裁縫をしたり、せいぜいが町に出て遊ぶ程度だ。地位が低そうという事であれば男女の差はほとんどなく、とりわけ農業従事者は男性が家主になるといっても、女性も働かなくてはならないし、互いに極端に持ち場を侵害されることがなければ、さして気にも留めない。難しいのは商業従事者であり、どちらかと言えば貴族社会に近いものとなるだろう。以上から、カルロはこの状況を非常にまずい、と判断した。要するに、期間限定の巡礼中に恋が実るとは考えづらいのだ。まして、それが高貴な身分となれば、—フェデリコの血縁は申し分ないにしても―許嫁がいる場合がある。
(厄介なことになったな……)
カルロは歓喜に震えて言葉を綴るフェデリコの向こうの壁に焦点を当てながら、承諾したことに心底後悔した。




