新任博士
天文室が寂しくなってから、カルロは毎日そこから海や街並みを見下ろして溜息を吐いた。
彼はその度に、フェデリコほどではないにせよ、自分自身もまだうまく整理がついていないことに気付く。モイラと二人での食事はそれまでよりも口数も少なく、またどのような励ましの言葉をかけても陳腐に思えてしまう気がして、どこかぎこちなくなっていた。一方のモイラは普段通り穏やかであった。強いて言うならば毎日の祈りに精を出し、そこで博士にも挨拶を交わす程度で、普段の暮らしぶりもあまり変わらない。
その間、仕事の合間を縫って挨拶回りをしているエンリコと出会った際には、カルロはフェデリコの様子を気に掛けるようになっていた。相変わらずふさぎ込んだままだという事で、カルロでさえいよいよ彼の行く末を心配し始めていた。
本土からの商船と共に彼女がウネッザに降り立ったのは、カルロがそんな日々を過ごして二週間ほどたったある日である。
彼女は上陸早々頭陀袋を下ろし、息を吸い込むと、彼は、「懐かしいなぁ……」と呟く。
快晴というには少々雲の量が多かったが、風向も良好で、帆を全開にすればすんなりとウネッザにたどり着くことができた。玄関口に当たるマッキオ広場もそこそこな賑わいであり、白い街並みも海流の付き合う大運河も穏やかな観光日和だった。
彼女が帆を翻して運河へと消えていく交易船に別れを告げると、遅刻しそうな議員が息を切らして元首官邸に向かっていく。彼女はそれを目で追いかけ、意地悪な笑みを浮かべる。
「なーんにも、変わんないなぁ」
彼女は大きく空へと伸びをして、呑気にあくびをした。すると、男が議員よりもずっと焦って彼女の前を駆け抜け、教会へと消えて行った。彼女はまた楽しそうに不敵な笑みをこぼす。
「私も行きますかぁ!」
彼女は地面に下ろした頭陀袋を持ち上げて、男の後を追うように教会へと向かった。
礼拝堂は掃除を終えて埃一つもなく、神父と修道女が聖典に手をかけて暫くした頃だった。雲の影響で窓から光が覗かずにやや薄暗く、彼らは蜜蝋の蝋燭3本を囲って教壇に向けて祝詞をあげていた。静寂の中に神の賛美を伝える麗句が綴られ、神秘的な雰囲気を醸し出している。
突然、乱雑に扉が開かれる。重厚な鉄の扉がキンと鳴る。静寂を破る音に、聖職者たちはピクリと反応こそすれ、殆ど変わりなく唱和を続ける。
そんな慣れ切った彼らには目もくれず、カルロは僧職には相応しくない、乱雑な足音で階段を駆け上る。普段よりも乱雑に感じたのか、神父は祝詞を唱えつつ口元を緩めた。誰も咎めなかったのは、今日が特別な日だった事もある。
カルロを追いかけるように、直後にノックの音が聞こえる。修道女の一人が立ち上がって静かに扉を開く。彼女は訪問者に事情を尋ねると、振り返って神父に微笑んだ。教壇に集うものたちは顔を合わせて微笑む。荘厳な雰囲気を多少崩しつつも、彼らは唱和を続ける。修道女は訪問者を招き入れると、天文室へと案内した。
彼女が展望台に到着すると、カルロとモイラが歓迎の準備をしている最中だった。カルロは焦って頭を下げたが、モイラはあくまで冷静に振り返り、旧友にでもするように会釈をした。
「チコ先生、ご無沙汰しております」
「うむうむ、モイラちゃんは今日も可愛いねっ!」
明らかに年下の女性がモイラに向けた言葉に、カルロは思わず目を見開く。手に持ったトレンチャーを机上に置き、モイラに視線を向ける。モイラは混乱気味な彼の表情に頷くと、カルロが机に置いたトレンチャーをそっと机に並べた。女性はカルロに気づくと、首を撫でながら笑った。
「いやぁ、ハハ……うぅん……」
モイラはボウルの料理を盛り付けながら、なんてことはないという表情で言った。
「彼はいいんですよ、ユウキの先生ですから」
カルロは我が耳を疑う。その表情のままチコと呼ばれた女性を見る。
若い。若すぎる。それが、カルロの持った印象だった。本土と呼ばれる大陸側の人間特有の綺麗な金髪を持ち、鼻が高く、ウネッザの人よりも背が一回り小さい。服装はカルロの知り得る服飾とは異なり、綺麗に青色に染色されている長いスカート、ふわふわの首周りのレースなどが目立つ。ウネッザのレースは大層有名だが、それに負けない程の美しいレースだった。そこで、カルロは思わず切り出す。
「カペルの方ですか?」
「ん、この肉体はそうらしいね」
チコは答える。カルロは暫く呆然と見つめていたが、耐えきれずに首を傾げた。
「まぁまぁ、取り敢えず座ってお話ししましょう」
モイラは椅子を引く。チコが堂々とそこに腰掛けると、モイラはその隣に座った。カルロは訝しみ、チコから視線を外さずに腰掛けた。チコは塩漬け野菜を前にして微妙な表情をしつつ、銀製のナイフを引っ張り出した。
「あっちは生野菜が普通だったからなぁ、私も舌が肥えたかねぇ」
カルロは並んだ食事に視線を下ろす。ウネッザでは耕作が出来るほどの大規模な土地がない。それ故に新鮮な野菜があまり流通しない。
カルロは元より本土の中でも田舎の出身であり、穀物以外はあまり口にした事はないが、野菜そのものを収穫した事はあった。そのため、彼もウネッザの食卓に並ぶそれが新鮮なそれよりしなびた塩漬け野菜や酢漬け野菜になっている事に、複雑な心境を抱いてはいた。チコはもしゃもしゃと塩漬け野菜を食べながら、味を確かめて頷く。思いの外噛み応えがあった為か、チコは食感を楽しむように何度も咀嚼した。モイラはその姿を愛おしそうに見つめ、チコの体を見回す。
「チコ先生、あれから何回目でしたか?」
「びっくりしたまえ、なんと十七回だ!あれからたーいへんだったんだよ。聞いてくれ。いやぁ、どうも本土では私は異端らしくてね、十三回は早々に焚刑になってしまって!困ったものだ、ついに女の肉を使うことになってしまった!」
チコが大仰に手振りを使って説明する。それに合わせて銀食器から塩気のある雫が飛ぶ。机に跳ねたそれを、モイラが笑顔で台拭きで拭う。一方、カルロは話を聞いて思わず驚嘆の声を上げる。チコはカルロに気づくと、再び誤魔化すように笑った。
「この人は、死霊魔術が専門なんです。特に憑依魔術の大家でして」
「し、死霊魔術!?」
カルロの鬼のような形相を避けるため、チコはトレンチャーで顔を隠す。塩漬け野菜の影響で多少ふやけた部分は、丁度良い食べ頃になっていた。
「いやいや、天文学もするよ!ほんとさ、嘘じゃない!だって、ほら、魔術と天体には深い関連性が……」
「いや、そういう問題じゃないでしょ!異端中の異端ですよ!」
カルロがつい机を叩いて立ち上がる。トレンチャーを盾にして、チコは目を瞑った。
「お、ち、つ、い、て!今から詳しく話すから!」
カルロは口を結び、眉をひそめる。チコが恐る恐る目を開き、上目遣いでカルロを見る。カルロは負い目を感じ、前傾姿勢を正して椅子に座り直した。
カルロが席に着くと、チコは安堵の溜息をつき、ゆっくりとトレンチャーを机に置く。モイラはその上に肉団子を3個ほど置く。チコはカルロに怯えつつ、やや震えながら話し始めた。
 




