海婚祭1
葬儀の翌朝、カルロはいつもよりも早く目を覚ました。まだ太陽も昇っておらず、カルロは身を起こし、ボサボサになった頭をかく。彼はぼんやりとした頭を整理して、ベッドの上でぼんやりと空を眺める。仄暗い部屋の中は質素な鞄くらいしかないが、備え付けられていた机上には一冊の簿記の参考書と、教会の修道士に借りた聖典が置かれていた。
カルロはぼんやりと机上を見つめ、暫く静止する。その後、彼はのっそりと起き上がると、参考書に手を伸ばす。それをパラパラとめくると、小さな溜息をついた。
「……博士」
彼の呟きに応えるものはなかった。彼は目をこすり、小さな溜息をつくと、大理石の壁に似つかわしくない木屑まみれの服に着替える。そして、朝の体操を済ませて廊下に出た。
カルロはエレベーターの前で立ち止まる。4本の取っ手が突き出た巨大な丸太のような柱と、太いロープの先に木製の籠のようなものがある。この丸太を回転させることで、ロープが滑車にかかり、滑車がロープを巻き上げることで昇降が可能となる。足のない博士は階段を登ることができないので、これを設置する必要があったのだろう。ロープがギシギシと鳴り、滑車を滑る音が安易に想像できる。巻き上げのために人力が必要なため、博士はできる限り天文室から降りないようにしていたのだろう。カルロはその機構にそっと触れて見る。丸太はひんやりと冷たく、圧巻の太さでカルロを威圧する。
「生きるのって、大変なんだよな……」
カルロは手を離し、天文室へと登った。
朝日はまだ登っていない。海面も深淵に沈んでおり、月だけをぼんやりと映す。その静けさを黙って見守っていると、水平線の向こう側から登るオレンジ色の太陽が昇ってくる。海面に映る陽光は眩くあちこちを輝かせ、ゆっくりと音も立てずに昇る。その美しさに、カルロは息をのんだ。
(いつまでも、立ち止まっているわけにはいかないんだよな……)
カルロは踵を返した。朝食の支度をする為に、厨房に向かった。
カルロは仕事が終わると、真っ直ぐに帰宅した。服は木屑を払ってもなお白くなり、カルロは洗濯の必要性を痛感しつつ、重い足取りで天文室へとのぼった。
博士のいない天文室は静まり返っており、折りたたみ式の机もそのままに放置されている。カルロはそこに腰掛けると、簿記の勉強を始めた。ウネッザ式と言われる複式簿記は左右の合計値が同じになるように作られており、貸方には収益と資産、借方には費用が記される。貸方を見ればどれだけの収益が出たか、あるいは借方を見ればどれだけの損失が出たかがわかる。カルロもはじめは文字を覚えるだけで手一杯だったが、今ではなんとなく理解出来るようになっていた。
紙はカルロの手元には殆どなく、実際に書く機会は仕事の上での記録だった。薄暗くなり始めた部屋で、カルロは睡魔に襲われながら読み進める。コッペンにいるころには考えられないことだった。
「誰もいないかな……?」
聞き覚えのある声に、カルロは姿勢を正す。そして、彼は部屋の隅にある階段の方に視線を移した。視線の先には、長身で体型を曖昧に隠したトーガを着た男がいた。その人物は、ゆっくりと近づいてくる。
その男は、高身長には不釣り合いな幼い風貌をしたエンリコ・ダンドロだった。彼はカルロが認識したのとほぼ同時に、くしゃりと笑った。
「あぁ、ごめんよ。怒らせてしまったかな……?」
「いや、こっちこそ、気づかなくてごめん」
カルロは椅子をエンリコに向け、恥ずかしそうに笑った。エンリコは背中に手を回し、目を伏せて微笑む。
「いやぁ、こっちの事情で急にお邪魔したわけだし……」
カルロは階段をのっそりと登る足音に気がついた。カルロは階段に視線を向ける。やがて嗚咽混じりの男性の声が聞こえ、階段を踏みしめる音が近づくと、エンリコが苦笑した。カルロも何かを察し、階段に視線を戻す。
タン、タンと踏みしめる音と、嗚咽が反響する。フェデリコが号泣しながら天文室に顔を覗かせる。やがて博士のエレベーターのあたりに視線を送ると、暫くして騒々しく泣き始めた。
「ぜぇんぜぇぇぇぇぇ……!ひっぐ、えっぐ」
「また始まったよ……」
エンリコは首を振り、ため息をつく。申し訳なさそうな表情をしながら、カルロから離れていく。エンリコはフェデリコを労う。カルロはその背中を見届ける。エンリコはフェデリコの背中を摩り、フェデリコは何度も頷く。やがてフェデリコが落ち着きを取り戻すと、カルロはやっと腰を上げた。
「……博士は……博士は……うぅ〜」
エンリコは子供でもあやすようにフェデリコの頭を撫でた。
「ほら、博士も頑張れって言ってくれてたでしょ」
カルロはエレベーターの真上に立ち、フェデリコの顔を覗く。目は赤く腫れ、涙の筋がくっきりと残っている。ぼろぼろと溢れた涙で靴の先が濡れている。
「フェデリコ、まずは深呼吸」
「うっせ、バーカ!バーカ!」
フェデリコは涙を服の裾で拭いながら言った。乱暴に鼻を啜り、カルロを手で突き飛ばした。カルロはバランスを崩して数歩後ずさった程度であった。彼はフェデリコが長身な割には弱い力であることに多少驚いた。
「……ごめんね、カルロ。この子、こういうところあるから……」
エンリコが困ったように笑う。カルロは苦笑で返す。フェデリコは涙目のままでカルロを指差し、甲高い声で叫んだ。
「お前が博士を殺したんじゃないだろうな!財産目当てで殺したんじゃないだろうな!」
「なんてこと言うんだ、お前!いっつもいっつも失礼だぞ!」
カルロも歯をむき出しにしてフェデリコを睨む。フェデリコも前のめりになりメンチを切る。すかさずエンリコがフェデリコの首を引っ張る。
「こらこら、やめなさいって」
「だってぇ……!」
フェデリコが訴えるような潤んだ瞳でエンリコを見る。エンリコは、柔和な笑みでフェデリコをあやす。カルロは釈然としない気持ちを抱えながら、二人の様子を眺めていた。




