船はいりませんか?
「はぁっ……」
カルロは巨大な聖堂に面する広場の隅に置かれたベンチに腰掛け、項垂れていた。この町の人々はそもそも移動には例のゴンドラを使ううえ、主たる利用者は既に海の向こうで商いの真っ最中だ。ガレー船にせよ、帆船にせよ、高級品である。簡単に見つかるものではないことは言うまでもない。
彼は胸元に仕舞った革袋の中身を見て、さらに大きなため息を吐いた。行きかう立派な人々には見向きもされず、声を上げるだけであっという間に夕刻になる。市場が閉まってしまう頃だが、食事もろくにとらず客集めをしていた彼の体力は既に限界で、宿を探す気力もなかった。
ピンクの建物から続々と出てくる高貴な人々は、項垂れながらベンチに腰掛ける彼を怪訝そうに見ながらも、特別侮蔑の色を見せる者はない。カルロは掠れた声で、彼らに向けて声を上げた。
「船……船は必要ではありませんか?どんな船でもいいですよ!商船、移動用のゴンドラ、勿論軍船でも!」
高貴な人々は視線を逸らして立ち去ってしまう。やっとの思いで立ち上がった彼が手を伸ばしても、足を止める人はいなかった。しんと静まり返った広場の中心で、彼は力なく項垂れる。ずっと付き合わされていた船頭でさえ気の毒そうにカルロを見上げている。
「あぁぁぁぁぁぁ……宿賃……。ほぼなし。明日の移動考えると野宿。野宿かぁ……」
教会が無慈悲な鐘の音を鳴らす。ドームで羽を休めていた海鳥が一斉に飛び立つと、広場には終に彼一人になってしまった。静寂の中に押し寄せる波の音に、人々は半月型の橋を渡って帰路に着く。取り残された少年を不安そうに見つめる船頭にも、終に新たな客が現れる。聖遺物を見てホクホク顔の巡礼者たちだ。彼らは道中での話に夢中で、カルロには一切気づいていない。船頭は躊躇いながらも、ゆっくりと船を出した。暖かい宿が待つ彼らは、実に余裕を持って談笑する。その笑い声が消えると、空が茜色から群青に染まり始める。
「どうするかな……。教会の前ならあるいは安全……?」
ベンチに座って項垂れる彼の体に潮風が吹き付ける。身震いして体を摩ると、鳥肌の立った肌の気持ち悪い感触が服越しに伝わる。彼は狭い路地とつながった広場の隅で、海鳥の散らばる様を見上げた。
この町は決して危険な街ではない。むしろ彼の故郷と比べればいくらか治安のいい都市と言っていい。とはいえ、夜の冷え込みや今後の生活を考えると、彼は一度協会に駆け込んだ方がいいのではないかと考えた。
潮風に冷え切った体を持ち上げ、ゆっくりと教会に歩き出す。壮麗な大理石の教会はこの町の創設以来最高の聖遺物である聖神マッキオの遺骨が納められており、巡礼者たちもこぞって向かう人気の観光名所だ。体を摩りながらその美しい建物の扉に手をかけるカルロは、群青に染まった暗い運河の流れの中に、何かの気配を感じる。ことり、という櫂を置く音が聞こえると、彼の体は自然と強張った。
強張る体でぎこちなくふり返る。まだ深夜と言うには早いが、密輸をするには十分な暗さだ。彼は、何らかの危難が迫っているのではないかと感じつつも、それを確認しないわけにはいかなかった。広場の隅に寄せられた船から、誰かが上陸する。
その人物の体は小さく、カルロでも倒せそうに思えた。歩き方はどこか女性的であり、凝視すれば全身をすっぽりとベールに包んだ修道女の様な姿だ。その影がゆっくりと教会へ向けて近づいてくるのを確かめた彼は、息を潜めて様子を伺う。その姿が鮮明になってくると、女性にしては体が大きいその影は、カルロを初めてとらえた。
小皺が多いが健康的に老いたのが伺われる、白い肌。髪は中で結わえているのか、ベール越しにもすっきりとして見える。手にはバスケットを提げているが、カルロには中身までは確認できなかった。姿勢は年の割にしっかりとしている。彼女は小さく会釈する。彼も会釈を返した。
「どうなさいました?」
「あ、えっと、今日こっちに来たんですけど、宿が、なくて……。いや、お金もあんまりないんですが」
カルロがそう言うと、女性は柔和に微笑み、教会の扉をノックした。教会の扉が開かれる。現れた修道女は女性を見ると、表情を緩めて扉を全開にする。女性は丁寧に頭を下げたあと、カルロに向けて手招きをして見せた。
「ほら、お入りなさい」
カルロには、その女性の後ろから零れる蝋燭の明かりのせいか、彼女に後光が差して見えた。
「……はい!有難うございます!」
冷え切った彼の体中に元気が戻る。彼は九死に一生を得た、と思わず顔が綻んだ。