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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第二章 博士の葬列
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博士の葬列

 ぼんやりと霞みがかった海上に、小さな船が漕ぎだす。賑やかしいはずの大運河にはほかに一隻も居らず、たった一隻が暗闇に隠れるように櫂を海に立てる。一本の小さな蝋燭の明かりだけが海上に浮かび上がり、櫂が海をかく音さえも小さく、小さく響く。

 漕ぐたびに大運河の中央に入るゴンドラは、道を囲う手を合わせた人々に見送られる。彼らは一様にそっと手を合わせ、船が通ると讃美歌を口ずさむ。トーガの色は様々で、悲しみを噛みしめるがたいのいい海の男から、仏頂面の修道士、咽び泣く政治家、天体の本を大事に抱えるもやしのような体型の学生まで、種々様々だ。


 宿からは巡礼者たちが木枠の窓を開けて様子を伺う。暗い夜空を映す海面は一層暗く、聖マッキオ教会へ向けて漂うゴンドラを上手く視認できない。彼らは目を凝らして微かな蝋燭の光を見て、これは何かの儀式に違いない、そんなことを囁いた。ウネッザに来て暫く、信仰心と物欲と、刺激的な日々を過ごした彼らは、その新鮮な儀式に目を奪われる。彼らを横目に、ゴンドラは大運河にかかる橋を潜る。


 ゴンドラでは皺の寄った老婆が小さな棺桶の傍で屈み込み、両手でカンテラを持つ。穏やかな水面がさらさらと流れる。黒い喪服に身を包んだ老婆は、天へ向け讃美歌を口ずさみ、手を合わせた。皺の寄った、血管の浮き出た、骨ばった、「祈りの手」が灯された蝋燭により浮かび上がる。ヴェールで隠された顔も微かに透けて見える。唇は微かに震え、然し穏やかに微笑む。目じりの皺は隠され、然し頬を涙が伝う。老婆の涙が落ちる棺桶には答えるものもなく、ただ、船頭が静かに櫂を漕ぐ。


 ゴンドラに乗せられた棺桶の上部には月が彫られ、黄色く染色されている。散りばめられた星の絵もまた、強く、弱く輝く。中央には硝子張りの展望台が強調された聖マッキオ教会が描かれ、真っ白な美しい大理石の壁が見事に表現された。そして、下部には聖マッキオ広場が描かれ、先端には足だけが描かれている。


 大運河をゆっくりと進むゴンドラは、ドージェ達の待つ聖マッキオの広場へと近づいていく。ドージェは息子達を従え、静かに、厳かに佇む。金襴のトーガを喪服に換え、益々沈んだ空の色に隠された彼らの中で、白いミトラを冠する神父が、近づくゴンドラに祈りを捧げ続けた。


 高貴な人で埋め尽くされた聖マッキオの広場に、汚れた服を着た少年が俯いている。ゴンドラの方を向くことなく、拳を握る。時折嗚咽し、その度に小さく肩を持ち上げた。棺がゆっくりと上陸する。壮麗な讃美歌がこだまし、少年の鼓膜を揺らした。


 上陸した老婆は船頭に頭を下げる。そして、運ばれた先にいる人々に頭を下げていく。彼らは彼女にお悔やみの言葉をかけた。そのまま、彼らは弔事に参加するべく、物珍しいものに群がるように行列を作り、棺桶の後を追う。

 やがて棺桶が教会へと納められる。高貴な人々もまたその後を追い、ぞろぞろと教会へと入っていく。讃美歌が途切れると、大運河にいた人々は役目を終え、そそくさと家へと戻っていった。


 空は高く、群青の中に青や白の星をちりばめる。広場に取り残された少年は、うつむいたままで一際輝く動かない星に手を伸ばす。空を掴むと、潮風に冷やされた体が小刻みに震え始める。


「やっぱり、ここにいたか」


 少年は後ろからした声にふり返る。そこには、背の高い、生真面目そうな男がいた。


「カウレスさん……?」


 少年は目を真っ赤に充血させて、カウレスの方を見る。カウレスは小さくため息を吐き、少年の隣に立った。


「カルロお前、塗装の時も、ずっと泣いてたんだろ」


「な、ん、で……?」


 カルロ俯く。カウレスは再びため息を吐き、頭を掻いた。


「お前にとっては大事な人だっただろう。汗拭ってたように見せるなんて、器用な真似するなよ」


 カルロはどっと溢れる涙を拭う。首を振り、唇を噛みしめた。


「博士は、俺に言いました。これからできる事とこれからもできない事を整理しろって。だから、まずは博士に見て欲しかったんです」


「何をだ?」


 カウレスはカルロの方を向く。カルロは指で鼻を押さえ、静かに微笑んだ。


「仕事してる俺のこと」


「なんだそりゃ?」


 カウレスは眉を顰める。カルロは俯いたままで自嘲気味に笑った。


「わかんなくていいです。俺がこうしているために、あの人はいろんなことを教えてくれたから。そういう姿を見せれば、喜んでくれると思って」


 カルロは口角をつり上げたまま、溢れる涙を拭う。嗚咽に肩を揺らすたびに、誤魔化して笑う。カウレスは空を見上げた。


「ほら、上見ろよ」


「上……?」


 カルロが聞き返すと、カウレスはその首を強引に空へと向ける。空を見上げたカルロは思わず声を上げ、目を見開いた。


 彼は何重にも景色が重なる中で、青く眩く輝くものを見た。真っ直ぐに伸びて薄くかかった雲のような光を伸ばすそれは、ゆっくりと、空を突っ切っていく。窓を開けた人々が、飛び去る星に手を振り、歓声を上げ、目を輝かせた。カルロは涙で視界の重なった眼を拭う。かつて不吉の象徴だったそれを見上げ、彼は裏返る声も気にせずに叫んだ。


「博士!俺さぁ、わかったんだ!無駄じゃなかったんだよ、博士!俺も、博士もさぁ!こんなにも綺麗な尾を引く星が、不吉の象徴なわけがないじゃん!」


 カウレスは眩しそうに目を細めながら微笑む。


「博士が晩年までかけて解明した、80年に一度訪れる尾を引く星。それは空の向こう側にあるものが楕円に動くなんていう、博士の「戯言のような」発言に意味を持たせてしまった。彼は「偉大なる師匠の名を借りて」その星にこんな名前を付けたらしい」


 彗星はずっと近くに来て、町を青白く照らす。月よりもずっと近くにあるように見えるそれに、ウネッザの人々は再び歓声を上げた。皆空を見上げ、毒を帯びたと言われていたそれに目を輝かせる。


「博士、任せてくれ、俺頑張るから!見ててくれ、モイラ婆さんの事も、フェデリコの事も!船だって、ウネッザ中の人がびっくりするようなもの造ってやるから、見ててくれ!」


 カルロはそれに向けて、必死に何かを伝えた。自分でも何を言っているのか分からないほど、彼は思うままの言葉を伝えた。


「即ち、『ルシウス彗星』と」


 彗星は眩く真っ直ぐな青白い雲を描き、空の彼方へと消えて行った。

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