餞の言葉3
薄暗い礼拝堂に光を取り入れる天窓は斜陽を切り取り、教壇の先にそびえる聖マッキオの像は茜色に染まっていた。カルロは終始顔を上げることなく階段を上り、博士の部屋にやってきた。
小さな作業机には博士の記した観測記録が積み上げられ、学術書で窮屈になった書棚には小さな絵がぽつんと飾られている。雪景色の都会を描いた絵画で、曇天から降り注ぐ雪と家路を急ぐ町人や、ぼろ布を纏った労働者がガス灯の周りに集まって身を縮こませているさまなどが描かれており、彩の少ない、灰と白色にくすんだ絵画だ。その中に、騎兵の将軍の像が厳かに立つ。見ているだけで手がかじかみそうな臨場感の中に、唯一彩りが添えられていたのが、高いガス灯の頂上に輝くオレンジの光だった。よく見れば、礼拝堂に差し込む斜陽によく似ている。
「気になるかい?」
博士のしわがれた声に、カルロは視線をベッドに向ける。博士は乾いた唇を口内に隠し、自嘲気味に笑った。
「ただいま、帰りました」
博士はカルロの返事に満足そうに頷いた。彼は、腰を持ち上げ、枕に埋めていた首を起こし、寝癖でぼさぼさになった頭を持ち上げる。深く刻まれた疲労の濠を誤魔化すように、くしゃりと笑って見せた。
「そこは僕たちの故郷だ。サンクト⁼ムスコールブルク。僕がいた頃はガス灯はなかったが、ある人からの贈り物でいただいてね。暖かい絵だろう?」
カルロは絵画を凝視する。白と灰色の寒々しい光景の中に、燦然と輝くオレンジのガス灯。明かりの為に蝋燭や魔法を使う必要がなくなった町は、ムスコールブルクとゲンテンブルクの二つである。魔術不能の多いプロアニア王国の首都であるゲンテンブルクは必然として、ムスコールブルクには戦利品としてもたらされたのだという。温かみのある、とがりすぎないオレンジ色はぼんやりとしていて、白い雪が降るのに遮られている。
「博士は……。研究をしていて、苦しいな、とか、思ったことはありませんか?」
カルロは平面の中から浮き出すようなガス灯の明かりを見つめる。博士は天井を見上げ、穏やかな表情で答える。
「あるよ。特に、始めたばかりの頃はてんで駄目だったな」
「俺、さ……。最近になってやっと気づいたんだ。今までの仕事はすごくゆったりとしていて、全然優しい仕事だったんだって」
博士は目を瞑る。斜陽を切り取る窓のないこの部屋は薄暗く、光と言えば焚かれた香草と蝋燭の火だけだった。暫くの沈黙の後、博士は鼻から小さく息を吐く。カルロは自嘲気味に笑うと、暖かいものが頬を伝いかけるの堪えて鼻声で続けた。
「なんか、悔しいんですよ。全然、できてないって。周りの人が優しくしてくれるのとかも、情けなくって。どうしようもなく、苦しいんです。息が、できないっていうか。周りのものが全部素晴らしいものに見えてしまって……」
蝋燭の火が揺らぎ、香草がパチン、と音を立てる。博士の枕元にあるチェストの上の水差しには結露が浮かぶ。向かいのベッドは空で、モイラが夕食の支度をしていることが分かる。いよいよ夜の帳が落ち始めていた。
「物事は慣れることにより、上達する。すべてが時間、時間が解決してくれる……。焦る程の事じゃあない」
博士はカルロを諭す。低くてしわがれた声が、妙な説得力を持ってカルロの耳にも届いた。
「でもっ……!」
カルロの訴えるような声。博士はその涙を堪えるような悲し気な表情を一瞥すると、全てを包み込むような微笑みを返した。
「そうだね……。では、君に、最期の講義をするとしよう」
「最期の講義……?」
博士は思い出し笑いを浮かべる。カルロは、真っ直ぐに空へ望む視線を追いかけた。博士は数回深呼吸をする。やがて、若々しく、力強く息を吸いこんだ。




