博士の弟子2
教会の礼拝堂へ集う巡礼者からは、まず驚きの声が上がる。彼らの視線を釘付けにしたものは、聖マッキオの聖遺物ではなく、白昼堂々と赤地に金襴のトーガを纏った男が、あろうことか教会にいる事であった。貴族といっても地味な服装が多いウネッザの民の中で、これほど存在感を放つトーガであれば、巡礼者であってもそれが元首であることが容易に理解できる。
「あれがドージェかぁ……」
「最高峰の経済大国、やはり服も豪華ですねぇ」
呑気に語り合う巡礼者達は、ドージェに劣らぬ高級な服飾で着飾っている。聖地巡礼のための費用が出せるのだから、それなりの身分の人間達なのだ。勿論、コツコツと資金を貯めてきた普通の巡礼者達からすれば、ゴテゴテとした装飾は少ないが圧倒的な高級感を醸し出すドージェの服は目を見張る美しさだ。
彼らの輝く瞳に囲まれながら、呑気なエリート巡礼者達は顔を見合わせて首をかしげてみせる。ドージェが巡礼者達に手を振るので、それに歓声を上げるその他の巡礼者達に紛れて手を振り返す。ドージェは彼らの関心が薄れるまで適当に応対したあと、手土産を持った貴族の子らしき青年を従えて階上へと登っていく。
「ありゃあどこにいくんだ?」
「博士のところですよ!ユウキとかいう!」
巡礼者達はドージェが去るまで、その絢爛な背中を見つめていた。
モイラは階段を上る音に、掃除の手を止める。客人を迎えるために掃除道具を片付けると、皺の寄った手をよく濯いで再び天文室に戻る。天蓋のない青空には真南から少し傾いた太陽があり、いつもの様にややしつこいくらいに部屋を暖める。
モイラはエレベーターの真上に立ち、ゆっくりと登ってくる老紳士に頭を下げた。この良妻にピアッツァは片手を挙げて対応する。菓子折を提げたエンリコは優しい微笑を湛え、頭を下げた。ピアッツァはモイラと握手を交わし、入れ替わりエンリコが菓子折を手渡す。
「御無沙汰しております、モイラ夫人。いつも息子たちがお世話になっております」
受け取った土産物を大事そうに抱え、モイラは困ったように笑う。
「こちらこそ、元首様。主人を呼んでまいりますね」
モイラは階段を下りる。ピアッツァとダンドロは顔を見合わせ、互いに何となく微笑する。ピアッツァは空を切り取ったような天井を見回す。日中はただ空の景色を切り取るだけの役割しか持たないのか、雲の動きがよくわかる静かな場所である。
何もないがゆえに外を眺めるのは単なる暇つぶしであり、ピアッツァにとってはその空に意味を見出すことはできない。地上に点々と見える中庭の緑にこそ、彼は美しさを感じていた。繁華街には蟻のような人が流れ、橋の上には茣蓙に座する両替商が貨幣を数えている。陰険そうな顔が目の前に浮かぶようで、ピアッツァは鼻を鳴らした。
暫くすると、手動のエレベーターを持ち上げる音が聞こえる。きりきりと滑車が回転する音が聞こえ、暫くすると入り口も持ち上がり始める。暫くしてモイラが階上へ戻ってくる。両手の指を前で絡ませ、客人の為に台所へと降りていく。やがて完全にエレベーターが持ち上がると、ユウキ博士が修道士に車椅子を引かせて昇ってきた。
「君も年を取ったね、ユウキ」
ピアッツァは意地悪な笑みを浮かべる。博士は自嘲気味に微笑んで見せた。
「いやぁ、君もね」
修道士がエレベーターに乗って降りていく。博士は旋回してダンドロ一家の下へ近づく。車椅子の車輪が滑車に負けじとカラカラと音を立てる。
「丁寧に菓子まで有難う。君らしくもなく、実に甘ったるそうなチョイスだ」
「あぁ、君が砂糖菓子が嫌いと聞いたのでね」
ピアッツァは眉を持ち上げる。博士は膝を叩いて大いに笑った。エンリコがモイラから紅茶と先ほどの菓子を盛りつけたものを受け取る。
「では、有り難くいただくとしよう!嗚呼、モイラの淹れる紅茶はうまいなぁ!」
博士がわざとらしく匂いをかぎ、紅茶を啜る。砂糖菓子をこれでもか、と口に入れて頬張る。ポリポリと音を立てる砂糖の塊は、少しだけひんやりとしていて、博士も舌の上で転がして楽しむ。ピアッツァはすまし顔で菓子と紅茶を受け取り、菓子は紳士的に口に放った。
「さて、何の要件だったかな?」
「フェデリコがまた迷惑を掛けたそうじゃないか。全く汗顔の至り。誠に申し訳ない」
ピアッツァは申し訳なさそうな表情を見せる。エンリコもさり気なく頭を下げた。
「なぁに、大した事じゃないさ。君に似て実にやんちゃな子だね。将来有望だから、大事にしてやりなさい」
博士は嬉しそうに目を細める。ピアッツァは安堵のため息を吐き、暖かい紅茶を口に含む。
「まぁ、君と同じように恋路でヘマをしないと良いね」
博士はタイミングを見計らったようにウィンクをして続けた。ピアッツァは反射的に紅茶を吹き出し、顔をむせ返る。すかさずモイラがその片づけをする。ピアッツァは渾身の睨みを入れる。それに対し、博士は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。ピアッツァは咳払いをして整える。
「……ふぅ。君は、まったく飽きないな。今度は君に相応しい一人ぼっちの子供の絵でも送るとしよう」
博士の表情が曇る。今度は立場が翻ってピアッツァが勝ち誇った笑みで髭を撫でる。モイラが二人を優しくチョップした。
「もう、二人とも少しは仲良くしてくださいな」
「「誰がこんな奴と!」」
実に気味のいい合奏だった。部屋中に響く二人の老紳士の声は、どことなく楽しそうであった。反響を確かめるような沈黙が場を支配する。そして、ほぼ同時に噴出した。
「ほんと、君は意地が悪いなぁ」
「ユウキ、そっくりそのまま返させて貰おう」
「それで、船の件はどうだい?」
ピアッツァは先ほどより若く明るい声で訊ねる。博士は嬉しそうに頷いてみせた。
「カルロ君は実にいい子だ、全部委任して問題ないだろうね」
「そうか、そうか。それは良かった。私も試した甲斐があったというものだ。君が貰ったというのは少々驚いたがね」
ピアッツァは指先で空をなぞりながら続ける。その姿は何となく指揮をとっている風にも見える。ピアッツァが上機嫌なことを確かめ、博士は紅茶を啜り、一つ息を吐く。
「彗星の事はちゃんと告知してくれたかな?」
「あぁ、町中が吉兆に大賑わいさ」
それを聞いて博士は安堵する。そこからは、二人で他愛のない話をする。
エンリコはその間も終始階段の方を注視していた。彼は階下から響く身軽そうな足音に関心を示したのだ。三人は変わらず他愛のない話を続ける。対して、エンリコは、速足の足音に目を凝らす。その正体を確かめたエンリコは、少なくとも弟側に過失があるだろうことを確信した。
「ただいま帰りました!」
天井は、青く澄んだ、実に上機嫌な空の色だった。
書きだめが切れたため、多少更新が遅くなります。




