博士の弟子1
「あああああああああああ!あああああああああああ!」
「煩いよフェデリコ」
劇場を照らす証明のような光が差す中庭は、緑の少ないこの町では高級邸宅の証である。
フェデリコは一人憤慨しながら帰宅し、翌朝までイライラしながら中庭を行ったり来たりしていた。見かねた兄のエンリコは、自室ではなく、わざわざ中庭まで来てフェデリコを諫める。普段から気性の荒いフェデリコであったが、今日は一段と機嫌が悪く思えた。
「兄さん、聞いてくださいよ兄さん!昨日博士のところに言ったら住み込みのいかにも田舎臭い奴がいたんでよ!そいつが……」
「落ち着こうか」
エンリコはフェデリコのでこを弾く。フェデリコは赤くなったでこを抑えてエンリコを睨む。エンリコは小さくため息を吐いて、荷卸しの邪魔にならない背の低い木の陰に屈み込む。それは、彼が弟の話を聞こうとする合図だった。フェデリコも同様にひんやりとした地面に腰かける。土地のない狭いウネッザだけに、窮屈で背の高い建物に切り取られた空も酷く狭く感じられる。それでも、緑にとっては特別有り難い日差しが差し込む。
「博士にあったら、住み込みの田舎臭い奴がいたんです。そいつが、博士がいないのをいいことに、僕を侮辱してきたんですよ!」
「君は態度が悪いからね。勘違いされてしまうのだろう。確かに優秀な頭脳と言うものも大切だが、最低限のマナーはわきまえた方がいい」
エンリコが本を開く。木製の栞は使い古されて黒く変色しているが、まだまだ立派に役割を果たしている。フェデリコが無理やり顔をのぞかせ、読書を遮る。
「また僕が悪いことにしてませんか!」
「いいかい、フェデリコ。この町に限らず、この世界は沢山の人の営みでできている。君一人では生きていけないんだ。普段の行いを改めることが、君が話を聞いてもらう近道だと思うよ」
エンリコはフェデリコの顔を優しく押し戻す。手に持った分厚い本を捲る。ページに所狭しと書き込まれた単語の羅列に、エンリコは目を細める。フェデリコはしかめ面で運河側の入り口を眺める。
人の往来が多い有力者の館ではあるが、金銀財宝で眩しい商人よりも胡椒臭い商人の方が多い。売り上げを伝えに来た商人が手形を持って商談用の二階の部屋へと案内されていく。その後から船に積まれた香辛料の袋を運ぶ屈強な船員たちが入ってくる。荷積み場は受付奥の中庭で、中庭にいれば囲む回廊を何度も往復する姿が見られる。
いかにも子供っぽく映るが、フェデリコは一応荷卸しの監督役である。船団を引き連れていく海の男達の中には、本来フェデリコかエンリコのいずれかがいてもおかしくはないのだが、現在は特殊な事情で二人とも海へ繰り出してはいない。商船に同行したり手伝いをした経験のあるエンリコは船員たちを労って挨拶をするが、フェデリコは退屈そうに荷を盗むものがいないかだけを観察する。
「フェデリコ、またエンリコに怒られたのか?」
「あ、父上。お帰りなさい!」
フェデリコが立ち上がる。威勢よい挨拶に手を振るのは、船団の到着に合わせて自宅に一時帰宅した元首ピアッツァ・ダンドロだった。
「お帰りなさい、父上。また博士に迷惑かけたみたいです」
エンリコは本を一旦膝に置き、優しく首を傾げる。ピアッツァは鼻から息を吐く。フェデリコが姿勢を正したのを確かめると、ピアッツァはそのまま顎を摩った。
「ユウキ博士にも大層迷惑をかけている。手土産でも持って挨拶をしておいた方がいいだろう。エンリコ、荷卸しが終わったら私と挨拶に行ってきてくれないか?丁度砂糖菓子を持ってきたんだ」
ピアッツァは金襴のトーガの中を探り、砂糖菓子の袋を取り出す。属州から届いた砂糖が比較的豊富にあるウネッザでは、他地域と比べると安く仕入れることが出来る代物だ。エンリコはしおりを挟みなおし、それを受け取ると、恭しく頭を下げた。
「ご依頼、賜りました。同行いたします」
「それでは、挨拶をしてくるから、番は宜しく」
そう言うと、ピアッツァは去り際にフェデリコの頭をくしゃくしゃと撫でて、階段へと消えて行く。二人はピアッツァが見えなくなると、荷積みの様子に視線を戻した。
「なんかなぁ、僕、もっと大人なんだけどなぁ……」
フェデリコの呟きに、エンリコは思わず吹き出す。彼は即座に咳払いをして誤魔化すと、膝に置いた本を開いた。
「挨拶に行くときには、君の言葉が真実かどうかを確かめておくとするよ。例の田舎臭い奴が、どんな人かも知らずに助言するのもよくないだろうからね」
「兄さん、ガツンと言ってやってください!」
エンリコは再びでこを弾く。その指で手際よく頁をめくった。
「しかし、君の言葉が本当だったら、僕は君に謝らなくてはね」
中庭には、実に鮮やかな植物が並ぶ。その中の荷卸し場には、厳つい男たちが伸びをしたりしながら袋詰めの商品を卸していた。
 




