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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第二章 博士の葬列
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華の旅路5

「すまなかったね、カルロ君」


 博士は困ったような笑みを浮かべながら、階段の方を向く。沈んだ夕陽の後には、博士の時間がやってくる。それを告げるのは、教会の鐘よりも先にうっすらと空に現れる消し屑のような星の瞬きだ。カルロは首を横に振る。


「いえ、ちょっとびっくりしただけなので、気にしないでください」


 博士は有難う、と短く告げる。手入れされた観測器具をもって、モイラが階段を昇ってきた。こまごまとしたものばかりだが、その重さはなかなかのものだ。


「エレベーターを使えばいいのに」


「いいんですよ。わざわざ皆様に迷惑をかけるわけにはいきませんもの」


 彼女はごく当然の様にそれらを博士の傍に広げる。カルロは部品の組み立てを手伝う。モイラも博士も、かなり慣れた手つきで分度器の設置や折り畳み机の展開をしているが、カルロもまた手際よくこなす。満天の星空の邪魔をする者は、初めからここにはなかった。


「カルロ君、ムラーノ教区へ行ったそうだね」


 カルロがびくつく。それを見て、博士は愉快そうに笑った。


「図星かな?グレモリーに会いに行ったんだろう?」


「ごめんなさい、どうしても気になってしまって」


 カルロが言うと、博士は首を振る。そのしぐさからは、怒りや恥じらいは特に感じられない。


「自分で自分の話を聞くのはより恥ずかしいから、まぁ、好きに評価してほしい」


 カルロが返事をすると、博士は既に空を見ていた。モイラは新たな部品を取りながら、おっとりとした口調で言った。


「ムラーノ教区へ行ったなら、例のもののお遣いも頼めばよかったですねぇ」


「例のもの?」


 カルロが聞き返す。博士はそれに視線を向けながら言った。


「望遠鏡……レンズを使って遠くのものを拡大してみるためのものさ。やはり肉眼で観測をするのは限界があると言わざるを得なくてね……。まぁ、そう言う用事もあるから、今度行くときは堂々と言ってきなさい。」


「わかりました。今度からは気を付けます」


 それから、司祭が届けてくれた数切れのパンと水差し一杯の井戸水を夕食にして、三人でのんびりと夜空を見る。博士は真剣そのものだが、二人は暢気なもので、一際輝く星を指さしては星座を追いかける。


「昼間の人……。あの人は博士のお弟子さんなんですか?」


「そうだよ。フェデリコ・ダンドロと言ってね、少し我が強い変わった子だが、まぁ、仲良くしてやってほしい」


「勿論です。それにしても、博士は慕われているんですね」


 カルロが言うと、博士は鼻を鳴らして微笑む。実に慈愛に満ちた眼差しで、星を眺めた。


「有り難いことに。僕は慕われるほど立派ではないと思うんだけどね」


 モイラが立ち上がり、湯を沸かしに向かう。彼女が階下へと消え行ったのを確かめると、博士は沈んだ声で続けた。


「僕にはもう時間がない。彼が、もしも僕の跡を継いでくれるならば、その時にはあの協調性のなさは少々問題になる。もし、もし、彼が思い悩んだ時には、君には彼を助けてあげて欲しい」


「博士……?」


 カルロは思わず聞き返した。博士は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。深呼吸の後の暖かい空気が昇ると、博士はメモを取りながら、慈しむような瞳で空を見る。

 空は少しずつ景色を動かしながら、変わらずにその光を保っている。群青の空に張り付いた輝きは、穴を開けたランプから漏れる灯りのように微かであったが、束ねられたそれは光を降り注がれた。


「カルロ君、船の事なんだが、次の会議では、君が僕の船を造るようにしてもらいたい。勿論、多くの人の助けを借りながらね」


「はい。わかりました」


 博士は深く息を吐き、瞼を閉じる。モイラが例の如く紅茶を注いで戻ってきた。


「きっと、僕に相応しい船を造ってほしい」


 カルロは立ち上がった。よく響く澄んだ声を張り上げ、博士に胸を張って見せる。


「任せてください!大船に乗ったつもりで!」


 彼はこうしてはいられない、とばかりに自室へ降りていく。博士は渡された紅茶を啜ると、目を弧にして笑う。


「僕に大船は似合わないと思うけどね……」


「あなた、覚えていますか?初めてこっちに来た頃の事」


 モイラの言葉に、博士は思わず鼻を鳴らす。


「忘れるもんか。満天の星を見渡せる天井、海面の揺れるたびに輝く様、ムスコールブルクではどれも見られないものだったね。いつの間にか当たり前になって、目を輝かせることもなくなったが、本当に美しかった」


「今も美しいんですよ」


 モイラは紅茶を一口啜ってから答える。一拍おいて、博士は微笑んだ。


「そうだね。慣れただけだ」


 モイラは目を細めた。


「確か私が20の頃でしたか、ムスコールブルクのみんなが遊びに来ましたよねぇ」


「そうだった、そうだったね!ルシウスは相変わらず元気だったね!相変わらず、本当に変なところに関心を持っていた。ロットバルト卿は宝飾、香料なんかに目を輝かせていたっけ。そうそう、ラビンスキーさんは船酔いでげぇげぇ吐いて、観光どころじゃなかったね!」


 博士は大層楽しそうに言った。モイラも負けじと笑う。二人の声は部屋によく響き、ガラス張りの部屋を一層明るく照らした。


「ルシウス先生は観光には目もくれず、運河で水を採取してうきうきしながら帰ってきましたよね」


「あの時は楽しかったなぁ!初めて知識量でルシウスを下した時の快感とか、もう、最高だったね!」


 二人はそのまま昔話に花を咲かせる。聖典の解釈からは考えられない結論に至った博士が異端の嫌疑をかけられたことや、今の元首がまだ若い頃のこと、自分たちの結婚式の事、ウネッザへ来るまでの旅路の事……。挙げればきりがない一つ一つを、大切に語り合う。夜もだいぶ更けても、話の種は尽きなかった。しかし、月も傾き始めた頃、博士は一息ついてモイラに語り掛けた。


()()()に来てからなんだ。僕が命が惜しい、なんて思いだしたのは」


「楽しい人生でしたね」


 博士はカルロに見せたことがない程、満面の笑みを浮かべる。


「あぁ、本当に」


 二人きりではあまりに広い部屋に、老夫婦はぽつりと座っている。天を仰げば満点の夜空、下を見下ろせば海のさざめき、そして隣には眩しい笑顔。二人は迫りくる時間に恐れるでもなく、穏やかに、快活に、二人きりの世界を堪能していた。

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