ジローラモと教会2
静まり返った食卓に並ぶものは、全てが良質の食材だが少なめに盛られていた。ジローラモは意気消沈した様子でさらをカチャカチャと鳴らし、ソースを絡めた肉を食む。フェデリコはその様子を気にしながら遠慮がちに食事を摂る。カルロはフェデリコの言いつけ通り、黙って彼の後ろに付き従った。
遠く港には今も砲撃の音が響く。光を失ったジロードは救われる道を求めて逡巡し、未だ答えを見つけられないでいた。
ジローラモはフォークを置き、大きな溜息を吐く。フェデリコの視線に気づくと、彼は疲れた笑みを返した。
「……あぁ、すまないね。こんなことになってしまって。教皇にお願いしてすぐに帰れるように取り計らってもらおう」
「義父上……」
フェデリコは憐憫の感情を抑え、抑揚のない声で答える。ジローラモはたった一日でやつれた頬を持ち上げた。
「気にしないでくれ。私は君とカタリーナが幸せならもういいんだ。……いつか、こういう日は来る」
カルロは後ろで組んだ手を強く握る。彼どころかジロードの重鎮たちでさえ、この事態に対処する手段を持ち合わせてはいない。
美しきメディス宮から見下ろす街並みは完全なる闇の中に沈み、辛うじて天井に姿を見せる星が瞬くばかりであった。
食卓にある燭台は炎も灯さず、その闇に抗う事もしない。白いテーブルクロスさえ、青白い光しか映し出すことはない。
カルロは非力な自分を呪いながら、皮に食い込むほど強く、自らの手を握る。船の事が分かる、それだけの力ではどうしようもない鉄壁の暴力は、ゆっくりとその距離を狭めていく。
「義父上……。僕は、ここを去るわけにはいきません」
フェデリコが食事の手を止め、力なく答える。ジローラモは意味を解しかね、彼の名を呼んだ。
「……義父上、どうか聞いてください。僕達は今、アーカテニアの力に屈しそうになっています。残念なことですが、いつかはこういう時が来る、という義父上の言葉は真実だと思うのです。でも、それはいまではない、僕は確信しているのです」
「……フェデリコ君。では、どうすればいいというのかね」
ジローラモはその低い声で喉を震わせる。目は机上に下ろし、乱れかけた髪の毛でその表情を隠す。机上でこぶしを握る彼の手を見ながら、フェデリコは答えた。
「わかりません。それでも、ここで諦めてしまったら、体を壊してまで僕をここに導いてくれた人を、裏切ることになるから。……貴方にとっては屈辱的な記憶かもしれませんが、身を粉にして働いた父上や、ぼろぼろになった元首官邸のピンクの壁に誓って、貴方を巻き込まなければならない。そう、決めていたのです」
ジローラモは黙る。フェデリコは目を伏せ、自嘲気味な笑みも浮かべつつ、美しい銀食器の数々に顔を向ける。銀食器に映る彼の顔は、幼い輪郭にも関わらず、酷く大人びて見えた。
「義父上、貴方が首を縦に振る間で、僕はここにいつくつもりです。首を掻き切られたなら、その首だけを宮殿の前で晒し続けてもいい。異教徒、オマーンの皇帝はこの危機を逃れるために手段を選んでいません。父だってそうです。教会の前に跪き、駄々をこねるのは貴方だけだ」
ジローラモは机を叩く。食器が飛び上がり、整然と並んだ列をずらした。
「精神論を聞きたいわけではない!」
一瞬、部屋が静まり返る。ジローラモは怒りを抑え、絞り出すような声で話し始めた。
「我が国ジロードは教会の海の守護者として、長らく聖マッキオとヨシュアを信仰してきた。その祈りの届かない遥か彼方に、アーカテニアが光の民の旗をはためかせた時、私達は最早海の守護者ではなくなったのだ。教皇は潤沢な資金をアーカテニアに流し、南方への信仰伝播に利用した。私達海の守護者には出来なかった、正しき教えの教授を。そして彼らは実際に我々の向こうでそれを成し遂げた。もはやこれまで。ジロードの城壁は取り壊され、アーカテニアの竜の旗が翻り、関所は一つとなるであろう。商人はそれを軽快に出迎え、アーカテニアの世にも珍しい異教の品々を掴み、教皇や、エストーラへと運ぶであろう。其れこそが、我々ジロードが辛苦を以て積み上げた徳の、最後に行きつく結末なのだ」
「僕は精神論を聞いているのではありませんよ、義父上」
ジローラモは顔を持ち上げる。そこには明確な非難の色が見えた。フェデリコは、普段であれば自然と震える瞳を堪える。カルロからは、その手が膝の上で握られ、しっかりと震えていることが確認できた。首筋を伝う汗の一滴まで、星の導いた光で見ることが出来る。
「義父上の心が折れたかどうかなど、僕には関係がありません。僕は、ヨシュアに背中を向けてでも、守らなければならないものを背負っているのです。それは、きっと神の意思にも適うものだと、僕は信じています」
「教皇派としての、ジロードの重みを君は知らないのだ。だから、そんなことを言えるのだ!」
ジローラモは先程よりも強い力で机を叩く。彼の傍に置かれた銀のスプーンが落ちた。
「終わった国に、神の加護が付くわけがないだろ」
それは、ジローラモやフェデリコとは違う声だった。フェデリコは振り返る。カルロは構わず、ジローラモに視線を向けてほくそ笑んだ。
「何だね、君は。失礼だとは思わないのか?」
「お生憎様。海賊には礼儀なんていらないもんでね、ちっとも習っていませんよ」
カルロはゆっくりと机に近づく。ジローラモはカルロの顔を見て、思わず目をひん剥き怒りの表情を浮かべた。
「覚えていてくれましたか、嬉しいです。でも今は貴方の恨み節を聞きたいわけではありません。説教なら後でじっくりと聞きますから。今は両国滅亡の危機、俺は、最早迷う必要などないと思いますが」
ジローラモは立ち上がり、先程よりも深く机を叩く。フェデリコは最早その恐怖を隠すこともできず、縮こまって肩を震わせている。
「黙れ!何故貴様がここにいる!ええい、絞首刑にして広場に死体を晒してやる!」
カルロは彼と同じように机に手をつけた。
「お前自身が言っただろうが。もうジロードには、神の加護なんかないんだよ」
ジローラモが気圧されて仰け反る。カルロはゆっくりと顔を起こし、その鋭い眼光で男を見た。
「アーカテニアに海の覇権が移れば、その時俺達の役割は終わる。それ以降は都市国家から大国にその役目を譲ることになるだろうな。教皇が神の意思の代弁者だとするならば、お前の言う通りなんだよ。でもな、ウネッザは何回禁輸されても何とかやってきたんだよ。ジロードにしてやられた時も、皆本気で国家の崩壊を覚悟して、散々うなされて、仲間割れして、それでもお前たちを突き返したんだよ」
星が揺れ動く。ゆっくりと中心へ向かう月が、あの壁から微かに顔を覗かせている。未だジロードにその光は届かないが、あと半刻もすればその姿は壁から姿を現すことになるだろう。
食卓に着く誰もが、それを見ることはできない。ジローラモの席からのみ確認できるものの、彼は無礼な使用人に釘づけにされていた。
「それは神の意思か?教会も、神様も、俺達を試しているんだよ。神様っていうのは努力を惜しまず、正しい行いをした人間には寛容なんだろう?だったら、ジロードはまだ足掻ける。お前が散々泥水に顔突っ込んで教皇に頭下げたんだ、ご先祖様が神様のためにあんな立派なものを建てたんだ。簡単にそっぽ向けるほど、神様は酷い奴じゃない」
先程の剣幕が嘘のように、ジローラモは萎れ切っている。彼はやっと解放された視線をひもじい料理に向け、絞り出すように反論した。
「対処法がないではないか。それに、どうしてお前を信じろというのだ?散々苦しめられた、お前に」
「……俺を信じる?ははは、出来ないだろうな。お前のプライドが許さない。ウネッザの事も、異教徒と手を組んだから信じられないのかもしれないな。でもな……」
カルロは馴れ馴れしくフェデリコの肩に手を回す。生まれたての小鹿のように肩を震わせるフェデリコは、怒り狂っていたジローラモを恐る恐る見た。
「こいつだけは信用できるんじゃないか?俺の勘違いだったら謝るが、こいつは俺を信頼している。じゃあ、俺も信じられるな?」
ジローラモはフェデリコにその険しい視線を向ける。可愛い娘を庇った男が、酷く体を震わせ、みじめに涙目を晒している。そして彼は、その本質を理解し、愛すべき臆病者に呆れて笑みを返した。
「全く、酷く強引な使用人もいたものよ。フェデリコ君も、そんな惨めな様子では、娘をやる事は出来んよ」
フェデリコは丸まった体をぴんと張る。しかし、生来の臆病は簡単に治るわけもなく、震える唇はそのままだった。ジローラモはその様子を見て、首を横に振った。
「いいだろう、試してみろ。それが婚姻を認める新たな条件だ。元より君達はウネッザの者、私には手に負えまい!」
カルロは黙ってフェデリコの背中を叩く。フェデリコは、震える声で言った。
「必ず、あの者達を返してみせます」
未だ月は出ず、星の光だけを受け入れた食卓は余りにも暗い。しかし、砲撃の音は、一旦止んだらしかった。




