浮かぶ絶壁
美しい丘が南の彼方に広がり、高く聳える城壁で囲まれた街並みに陽光が降り注ぐ。照り付ける朝日を受けた色彩豊かな町並みは、虹色の輝きとなって辺りを照らす。中心街の教会は白く発光するような輝きを見せる。その光は噴水にも届き、町中が輝きに包まれる。
カルロは椅子から起きると、凝り固まった体を伸ばし、その光を受けて朝の体操を始める。腰を曲げるたびに彼の骨が気持ちのいい音を鳴らす。体操には些か豪華すぎる大理石の床に映る彼に不釣り合いの服装は、やや窮屈そうに体に合わせて動く。
フェデリコは今も静かな寝息を立てている。カルロはそれを横目に上体を曲げ、右の手を伸ばし、弾みをつけて数秒間維持する。カルロの衣擦れの音に合わせて寝返りを打つフェデリコの頬には小さな跡がついていた。
カルロが体操を終え、マニュアルを確認していると、一時間遅れてフェデリコが起床した。彼は寝ぼけ眼の目を擦り、身を起こす。
「おはよう、窓の外見て見ろ、凄いぞ」
フェデリコが大きな欠伸をし、窓の外を見る。一瞬の沈黙の後、彼は静かな溜息を吐いた。
「丘の連なり、緑がウネッザよりもずっと多い……。それが、綺麗に見える理由なのかな……」
「鮮やかさだろうな。ウネッザはどうしたって、じめじめしてしまう。ジロードは広いし、湿気もウネッザほど籠らない。陽当たりもいいし、益々元気に見える」
二人は暫くの間、狭い窓から外の景色を見つめていた。太陽が更に南へと進む。ヨシュアの加護を信じるのには十分すぎるほどに、この栄えある港町は美しい光に満たされていった。
白い帆を掲げたマストが靡くジロードの港は、迫力満点の巨大帆船がいくつも停泊する。桟橋も長く、いくつもの足が海から伸びるように突き出ている。ウネッザならば当然のようにある水位を示す杭も無く、海はウネッザよりも広く、また陸も自在に大地が裾を広げている。
カルロは帆船の中を散策しながら、その一つ一つの特徴的な部分をメモに纏めていく。後学のため、と言えば聞こえはいいが、これは彼の生来からの趣味とも言え、実用性のない、独特の船首像や、砲口には些か小さい飾り窓など、その船の大きさと形状と共に細かく確認していた。
道行く人々はカルロを不思議そうに見つめ、船に荷物を運び込む。フェデリコのセンス溢れる高貴な使用人服のお陰で、この少年がウネッザで海賊行為をしていたとはとても信じられないだろう。
一方で、フェデリコは町で買い物を楽しんでいた。カルロには簡単に手を出せない物も、フェデリコは簡単に手を出すことが出来る。例えば、本日の市場で彼が足を止め、手に取った商品は、実用性のない飾り皿や、筒状のものなど様々で、その多くは故郷への土産物として購入していた。
昼下がり、荷積みを終えた帆船の出航を見送ったカルロは、満足げに鼻を鳴らし、自ら書き殴ったメモを確認する。興奮のあまり幾度も表記ミスがあるそのメモを見ながら、カルロは思わず鼻を鳴らした。
(俺、紙まで買って、当たり前に文字まで書いてたんだな……)
かつて畑を耕し、常に泥に黒くなっていた手は、今は本来の色を取り戻している。かつて麦穂を刈り取り、風車小屋に運び込んだその手には、今は豆だらけで厚い皮膚に覆われていた。
カルロが郷愁の念を感じていると、地響きが起こり、真昼の太陽が何者かに隠される。それに遅れて、滝の水が落ちるような、大きな音が起こる。その音は先ほど見送った帆船たちの行く手を阻み、港中に悲鳴が起こった。
カルロは振り返る。そこでは、巨大な水柱が太陽を隠し、海に滴り落ちる。滴り落ちた水は海に波を作り、送り出した帆船は港の目前で揺すられる。やがて、巨大な水柱はその正体を露わにした。
「なんだよ、この……壁……!」
海底の泥を頂上に乗せる分厚く巨大な岩の塊は、真南にあるはずの太陽を完全に覆い隠し、ジロード、ウネッザ方面を包囲する。最早帆船たちはその身を翻し帰港するよりほかにはなく、船員たちが入り込んだ水をかきだす。
ある者は唖然とし、ある者は腰を抜かす。巨大な岩壁はジロードの城壁の比較にならない強大なものであり、その上陸のために起こされた波の残滓は、今なおあちこちに波紋の形で残す。波紋は静かに広がり、巨大な壁に囲まれたジロードは、今朝の輝きを一気に隠してしまう。
その壁が出来上がって暫くすると、ジロードの軍船が複数出航する。カルロは所々が波に揉み込まれた桟橋から陸地に足を戻し、ジロードの砲兵部隊を固唾を飲んで見守る。
一斉に放たれた砲撃は物凄い音と埃を巻き上げる。狙いは良好であり、壁の中心に巨大な窪みが一つ出来上がった。しかし、それはぐちゅぐちゅと音を立てながら砲弾を飲み込み、元の形に戻ってしまった。
「再生した……?」
カルロは驚きの余り硬直する。ベルが緊急事態を知らせ、教会に大量の人々が避難する。やがて、聞き覚えのある不快な高音に乗って、高貴な男の咳払いが響いた。
「えぇー、コホン。ジロードの皆様、ご無沙汰しております。私、ニッコロ・マキャヴェッリと呼ばれた者です。ジロードの皆様、皆様に恨みこそございませんが、是非とも御礼返しをさせて下さい」
巨大な岩壁の向こうから、ジロード船籍へ向けて砲撃の嵐が起こる。岩壁がスピーカーを鳴らしたと思われる船の砲弾を避けるように穴をあける。そして、直ぐにそれを修復すると、ひたすら沈黙を決め込む。
「ファウスト……!」
カルロは物凄い剣幕で叫んだ。壁の向こう側に隠れた太陽は、彼に答えることはなかった。




