旅の終息
航海も終盤を迎えると、ウネッザでは滅多に見ることのできない生物を海の彼方の本土に見ることが出来るようになる。山に連なって広がる広葉樹林の中から、時々見ることのできる動物は、ひらひらと長い耳を立てながら鼻を動かし、地面から足だけを浮かすように飛び跳ねる。灰色狼の群れが稀に森から顔を出し、跳ねる動物たちは驚いて逃げ出す。また、珍しい青い色の鹿が、水辺に溜まった塩を舐めている様子を観察することもできた。
カルロはそうした景色を見るために、朝の体操の時間を早め、嵐の影響で所々に出来た水溜まりを船員とかきだしながら点検と修復を行い、夕方前には上甲板からぼんやりと連なる山脈を見つめていた。
(ウネッザじゃああんな森見られないもんな……)
カルロは、つい最近まで身近にあったはずの木々の集合に、郷愁交じりの目を剥ける。長らく見ることのなかった「森」は、彼の心を安らかにするとともに、狼たちの恐怖を思い起こさせるのに役立った。
「何見てるんだ?」
フェデリコが隣で身を乗り出す。カルロは背中を軽く引っ張り諫めると、手すりに顎を乗せて流れる景色に目を凝らせた。
「いや、故郷の景色をちょっと思い出してな」
「森を見てか?そういえば、お前は山の出身だったな」
「まぁ、こんな立派な森はなかったんだけどな」
カルロは愛おしそうに森を眺める。フェデリコが「ふぅん……」と生返事を返すと、カルロは小さく鼻を鳴らした。
「ほら、狼とかが村の柵を乗り越えてきた時なんかはさ、家の中から集団で一斉に石を投げたりしながら追い払ったんだよな」
カルロはとぼけた顔の線の細い動物の群れを見つめながら、しみじみと呟いた。フェデリコには、その郷愁は意外なほど恐怖を掻き立てるものだったらしく、眉を顰めて口を結んだ。
「危ないことするなぁ……」
「家畜を求めて下ってくると、本当に厄介なんだよな。群れだと俺達にはどうしようもないんだが、はぐれた一匹狼なんかは石で気絶させて首を掻き切り、血抜きをした後に皮を剥いで服や袋に利用したな。あとは、肉は村の全員で分けて、筋張った固いそれを蒸し、焼いて食べたんだ」
「美味かったの?」
フェデリコが訊ねると、カルロは苦笑する。
「……今思うと微妙だったな。舌が肥えちゃったのかもしれない」
「はは、それはいいことだな」
フェデリコは他意無く無邪気に笑った。カルロは海の向こうの景色を眺めながら、目を細める。
「俺、昔より弱くなった気がするんだよな」
「後悔してるのか?」
二人の間を潮風が抜けていく。海鳥が高く空を飛び、空の機嫌のよいことを伝える。ウネッザとは違う魚のにおいを嗅ぎながら、彼方で水を飲む鹿の群れを見つめた。
「冗談言うな、ウネッザは最高だよ。俺には勿体ないぐらい、最高だ」
カルロは髪を靡かせながら笑った
「飯も旨い、賑やかだし、飽きない。だから、ウネッザのために働くのは、最高に気分がいいんだ」
「お前も変わったやつだな」
上陸するジロードの港が近づく。ウネッザのガレー船団と比べて、遥かに数の多い帆船が風に帆の向きを変えながら港を往来する。本土に隣接する町はウネッザと異なり背後を高い城壁で守られ、往来する人々の上衣も裾が短く、ウネッザの若者たちの服に近い。一方で、夫と連れ歩く婦人たちの胸元はウネッザのそれよりも上まで隠されており、若い二人にとっては少々物足りない服装であった。
しかし、商人だけはウネッザとあまり変わりない様子であった。商人達の生きる場所は違えど、どれも綺麗な服を着て、身の丈に合わせて饒舌に乗せて語る。
近づくにつれ明らかになる海商国家としての違いを、カルロとフェデリコは黙って観察する。いずれの町も、カルロの故郷とは比べ物にならない華やぎで満たされ、動物たちとの奇妙な共生関係も、余り多様な広がりを見せてはいないらしかった。
「あんたたちも荷物纏めとけ!上陸の準備しろよ!」
「はい!」
「それじゃあ、またな」
二人は互いに荷物を纏めるために船内へ戻る。カルロの手荷物は小さな鞄に収まるものだけであったが、工具箱だけはずっしりと彼の手に重くのしかかった。
(あぁ、これで一安心だなぁ……)
カルロは昼の残りの干し肉を齧りながら、その味を楽しむ。片付け終えた荷物を抱えて上甲板に上がると、エンリコとよく似た笑みを張り付けたジロードの住民たちが、大きな手を振って船団を迎えていた。
カルロは呆れたようにため息を吐く。変わらない潮風のにおいと共にただよう、焼いた海鮮の香りが彼の鼻をくすぐる。海鳥も白と黒の羽を一杯に広げ、船の上を自在に回転する。
鮮明になる港には、見馴れた係船柱と薄着の水夫たちが帆船から荷を下ろしていた。ウネッザのように低い水位を気にすることもなく、船はジロードの大地にその身を寄せる。
基幹船から降りた要人たちがジロードの役人たちと握手を交わす。船員たちは全員が荷下ろしをはじめ、カルロは旅の思い出を惜しむように、ゆっくりと、点検作業に精を出した。




