老夫婦の船1
フラフラと石の階段を上る、不格好な音が響く。ゆっくりと韻を踏むように登る音からして、不機嫌なわけではないらしい。カルロが階段を上り切り、ガラス張りの部屋に顔をのぞかせると、博士は変わらず星の観測を行っていた。
「ただいま帰りました」
カルロが言うと、博士はゆっくりと旋回して微笑む。
「あぁ、お帰りなさい」
カルロは彼には似合わない会計術の教科書を持っている。それを認めた博士は、疲労を隠せないカルロに微笑んで見せた。
「多少は慣れたかね?」
博士の手入れされた白い歯が光をうっすらと反射する。夜も明るい星々の多いこの場所だが、老人の歯がこれだけ白く、またはっきりと輝きを見せるというのは実に珍しい事だった。カルロは首を横に振り、定位置に座る。博士の隣には彼の為に拵えた茣蓙が敷かれており、見栄えはしないが彼の尻が痛くなるという事もない。また、足を酷使する必要もなくなった。
「会計ってやつは厄介だ。特にウネッザ式は全然わかりません」
カルロはくたくたになった体で会計などを学ばされることに大層不服そうだった。彼は疲れた表情で半分閉じた瞼を持ち上げる。会計の教科書は大層乱雑に茣蓙の上に置き、猫背気味になっている。
「それにしたってなんで負債の下に資産があるんですか?納得いかない!」
「複式簿記かな?あれはバランスシートと呼ばれていてね、貸方と借方双方が同じになるようになっているんだよ」
そう言って博士は彼に手を差し出す。彼は黙って教科書を差し出した。博士はまず目次を確認し、ぱらぱらと頁を捲って目当ての頁を開く。そして、見上げるカルロに対して、目で質問を促した。
「だって、資産は負債じゃないじゃないですか。貸方の下に利益が書いてあるって、何というか違和感があるじゃないですか」
「……確かに、これは負債ではないからね。しかし、基本的には資産と言うものは、収入から支出を抜いた後に残るものだ。つまり、これを利益の部……借方に記載してしまうと、バランスがおかしくなる」
博士はカルロに表を示しながら、穏やかに続ける。
「わかりました。でも、そもそも、二つ書く必要って何なんですか?一つでも収支は確認できると思うんです」
「簡単じゃないから、かな。このように表にすれば、どれだけ使い、どれだけ稼ぎ、どれだけ収益が出て、どれだけ資産があるのか一目でわかる。わかりづらいかもしれないが、現物の価値も分かる。覚えればこれ程わかりやすいことはないよ。因みに、不正を完全に防ぐことまでは出来ないみたいだがね」
暫くの静寂。カルロは空を眺めながら整理する。彼には簡単にするための苦労と言うと、本末転倒の様に聞こえたが、理屈自体は納得のいくものであった。彼は「そうか……」と小さく呟く。博士はカルロがひとまず理解したことを確認した後、自身の作業に戻ろうとする。博士が分度器に手を掛けた時に、一筋の流れ星が現れた。
「うわぁ……!流れ星ですよ!」
カルロは流れていく星に目を輝かせる。間もなく流れ星は空の彼方にとけるように消えて行き、再び静寂が支配した。
「ははは。願い事はちゃんとできたかな?」
「忘れてた……!」
カルロが髪をかき乱すのを眺め、博士は実に愉快そうに笑った。給湯室から湯が沸騰する音が聞こえる。紅茶を盆にのせたモイラがゆっくりと登ってきた。
「綺麗な流れ星でしたねぇ」
「モイラ婆さんも見たんですね。何をお願いしましたか?」
モイラは紅茶を二人に手渡しながら、「忘れていました」とはにかむ。博士がそれを見て再び愉快そうに笑う。その間も紅茶と観測記録から手を離すことはないらしい。メモは古臭い羊皮紙に記され、目がしょぼしょぼするほど細かく記録がなされている。カルロはそれを見て、小さくため息を吐いた。二人がそれに気づいてカルロに穏やかな視線を送る。カルロはフォローするように早口で話し始めた。
「いや、今のは違うんです。仕事の事で……!」
「そうかね、信頼してくれるならば話してみなさい。案外悩みと言うのは、話せばすっきりするものだ」
博士は車椅子を器用に旋回させ、カルロの方を向く。カルロも姿勢を正して博士の方を見た。彼は戸惑うように、躊躇うようにちらちらと視線を泳がせた後で、深呼吸する。そして、博士を正視し、口を開いた。
「今日の事なんですが……会議で、博士の依頼した……葬儀用の船について会議があったんですが……。ちょっと、納得がいかなくて」
「納得がいかない?どういう事かな」
「いえ、どうと言われると困ってしまうんですが……。博士と豪華さが、どうしても結びつかなくて……。立派な人物だから、と言う理由だけで、本当に豪華な船を造ればいいのでしょうか?」
博士が眉を少し持ち上げ、顎を摩る。髭を丁寧に剃られた顎はするするとその指を受け流していく。カルロが何かを続けようとするのを、紅茶を注ぐモイラが遮った。
「ユウキは、優秀な人じゃありませんからねぇ」
モイラはもくもくと上がる湯気を見下ろしながら、さらりと答えた。博士は紅茶を受け取ると、いっぱいに湯気を吸い込む。
気が気ではない様子のカルロは、焦ってフォローを加えようとする。
「いえ、そんな事は!」
ユウキは満足げに溜息を吐き、カルロの言葉を手で遮る。
「いや、その通りだと思うよ。僕は優秀な人間ではない。より正確に言えば、優秀だと言われる方が鼻につく」
モイラがゆっくりとうなずく。カルロはまずいことを言ったと思い、フォローを入れようとするが、二人の会話は終わらない。
「ユウキにぴったりの船かぁ……そうですねぇ」
「僕は地味な色が好きかな。それこそ、小さなゴンドラ船の様な黒、とか」
博士が空を眺めながら、瞳を輝かせる。モイラは人差し指を立てて楽しそうに続ける。
「そこに一点、光が欲しいですね!たった一点でいいんです」
「あぁ、そうだね!そうだった、そうだった!立派な外遊船よりも、小さくて地味な中に、存在感のある一筋の光が欲しい!何せモイラは……」
「ユウキは、私のヒーローなんですから!」
モイラが博士の言葉に重ねる。言葉を遮られた博士は、モイラを一瞥して照れくさそうに微笑んだ。モイラは空になった彼のカップに紅茶を注ぐ。ずっと見せつけられたカルロは、唖然としながら二人を見回した。
「……ヒーロー?」
「えぇ。ユウキは私の事を守ってくれる、ヒーローなんですよ」
「よしてくれモイラ、もう昔の頃の話だ。ほら、カルロ、早く寝なさい。明日も仕事なのだろう?」
「えぇ!?気になります!」
カルロが前かがみになると、博士は顔を赤くしながら語気をやや荒げる。
「寝なさい」
カルロは仕方なく立ち上がり、階下へと消えて行く。それを見届けた後、博士は大きなため息を吐いた。
「全く、恥ずかしいからやめなさい」
「あら、私はちっとも恥ずかしくありませんよ?」
モイラはすまし顔で紅茶を啜る。博士はそれを見て、困ったように笑みを零す。
「全く」
分度器に手をかける博士の隣で、老婆は温かい紅茶を啜った。




