兄と弟のビス6
過労とは、湧水が排出口を塞がれた後に生じる、ダムの決壊の様なものである。それは岩を削るように確実に蓄積し、場合によっては前兆もなく訪れる。その病巣は何よりも深く根付き、取り除くことは何よりも困難である。終わることのないストレスが、何者にも代えがたい病巣として、長く、全身に留まるのである。
「おい、フェデリコ!もうちょっとで着くぞ!」
月は眩いばかりに水面に揺れ動き、微かに歪んで波に押し流される。押し流されて尚月は纏わりつく様に海面を滑り、いつまでもゴンドラを見つめる。
ひゅうひゅうと音を立てる風は夏の湿度を攫い、家々の狭間に凝縮されて吹き荒れる。吐息をつけば陽炎になる蒸し暑さがカルロの全身を襲い、衣服を無理に汗だくの肌に押し付けた。
ダンドロ邸に到着すると、フェデリコが飛び出す。ガチャガチャと扉を強引に開けようとしたので、使用人が横入りして扉を開ける。彼は体をふらつかせながら中庭に入り、廊下を通り、階段を駆け上った。普段は彼の心を癒すはずの樹木や植木鉢の花々も、ここぞとばかりに彼の足を攫い、邪魔をする。彼はそれも構わずに、一人で駆け上っていった。
カルロとチコは早足で使用人の後を追う。階段を昇る段階で、既にフェデリコが扉をガチャガチャと鳴らしながら兄を呼ぶ声が響き渡った。
カルロは思わず俯く。チコは一切の狂いなく、ただテンポよく階段を昇る。フェデリコが扉を叩く姿を視界にとらえると、彼はフェデリコを押し退け、部屋に入った。
呆然と立ち尽くすフェデリコの肩を、カルロが支える。くしゃくしゃになった顔が扉の向こうを見つめ、今にも飛び込みそうに手を伸ばす。
「一旦落ち着け、深呼吸、いいか?」
「兄さん、兄さんが……。僕のせいだ……。僕が無能だから……!」
「大丈夫だ、お前のせいじゃないし、お前は無能じゃない。だから落ち着け。お前が心配していると、かえって兄ちゃんがお前を心配するからな」
カルロが宥める。小さな声で祈りの言葉を唱えるフェデリコは、放心したように虚ろな瞳で頷く。それはまるで洗脳されたようであり、あらゆる外部からの言葉を遮断した。
数時間経過後、チコと侍医が部屋を出る。フェデリコがチコに飛びついた。
「あの、先生!兄さんは大丈夫ですか!」
「お、私を認めてくれたのかな?嬉しいねぇ」
チコはニヤつきながら答える。フェデリコは必死の形相で彼の服の袖を引き、何度も揺すった。カルロは背後の侍医が穏やかな表情を浮かべていることを確認し、チコからフェデリコを引き離した。
「落ち着け。大丈夫だ」
「う、あああ、うあぁぁぁぁぁあ!にいさぁぁぁぁん!」
彼は制止を振り切り、扉の中に入る。ベッドに横たわるエンリコが寝息を立てている静かな書斎は、見事に彼の号泣で満たされてしまった。カルロは彼の頭を優しく小突く。
「うるさい。休ませてやれって」
「うぅ、ひぐ、カルロぉ……だっでぇ……」
カルロはフェデリコの頭を撫でながら、エンリコを一瞥する。ベッドに横たわる彼のくまは彫り込まれたように深く、また、頬も殆どこけてしまっており、一歩間違えれば死人として棺桶に入れられそうな風貌だった。カルロは少し目を逸らし、落ち着き始めたフェデリコの頭から手を離すと、チコ達のもとに戻る。
「あれ、ほんと、生きているのが不思議なくらいなんだけど」
チコが小声で囁く。カルロは複雑な心境を微笑みで表現した。侍医は目尻に涙を浮かべながら、優しい笑みを零す。
「でも、本当によかった……。お坊ちゃまは昔から張り切りすぎるきらいがありまして、今回の事態は流石に今までで一番ひどかったので……」
「……エンリコには、俺からも厳しく言っておきます」
「そうしてください。彼は私の言葉には耳を貸しません」
侍医は困ったように笑う。その晩は、大事を取ってチコと侍医がダンドロ邸に残り、カルロはいったん自宅に戻った。カルロは帰り際に彼らの父とすれ違い、ことは済んだ旨を伝える。彼らの父親はカルロに陳謝したうえで、ゆっくりと、怒るための表情を作って自宅へと向かって行った。
(エンリコには、ホントにきつく言わないとな……)
カルロは夜空をぼうっと見上げる。月は歪み無く、丸を少し欠けさせて呑気に浮かんでいた。
翌日、カルロ達の出港は一旦中止となり、カルロは有休をとってエンリコに会いに行った。
食事ものどを詰まらせるようなエンリコの声はしわがれ、唇はひび割れ、目は真っ赤になっている。
彼は積みあがった書類を呆然と眺めていた。いつになくはしたない恰好の彼は、膝の上にパン粥を置いたままでカルロの来訪に気付くと、パサパサの口を舐めて笑顔を装った。
カルロには、それがとても薄気味の悪い笑顔に見えることも、彼には伝わっていないらしかった。
「大丈夫か?あんまり無理しすぎるからだぞ?」
「ははは、ホント、情けないよ」
カルロは花瓶に花を生け、処方箋を彼の傍に置く。侍医でなくカルロがそれを置く事を許したのには、ダンドロ一族にとっても特別な意味があった。
「ほんとにだぞ?お前、泣きじゃくるフェデリコ宥めるの大変だったんだからな?」
穏やかな昼下がりのダンドロ商会は、今日も変わらずに賑やかだった。エンリコの代わりに応対するフェデリコは緊張のあまり声を裏返らせるなど、一商会の主人としては余りに拙く対応してしまうため、周囲の商人も笑いをこらえるのに必死なようだ。
エンリコはそのくすんだ瞳で変わり果てた自分の手を見つめながら、自嘲気味に笑った。
「やっぱり、誰でもよかったんだよね。僕の仕事なんて」
カルロは聞き流し、白々しく花を構う。
「……親父に初めて怒られたんだって?」
カルロの突然の問いかけに、エンリコは一瞬驚きの表情を浮かべる。カルロがてきとうに花を構うので、部屋中にはむせ返りそうな花の香りが広がった。
「あぁ、初めてじゃないと思うけどね。人間失格だって」
「なんだそりゃ」
カルロが吹きだす。
エンリコは窓の外を眺め、荷下ろしをする人々を目で追いかけた。
忙しなく、力強く、地面や甲板に足を着けて生きる人々は、真剣な表情の中にどうしようもない輝きを見せる。取引に来た商売人をひきつった笑みで返すエンリコは、彼らが立ち去ると同時に大きなため息を吐き、頭を掻きむしって次の仕事に向かう。そして、フェデリコに送られた商人は、くすくすと鼻の先で笑いながらも、どこか憎めない少年主人に、エンリコの時には見せない笑みを零す。
「こんな時間、いつぶりだろう……」
エンリコは独り言ちる。カルロは肩を持ち上げて、呆れたように笑った。
「俺は、いつも見ている光景なんだけどな」
エンリコも疲れた笑みで返す。
「なに、それ?」
「お前さ、フェデリコがなんであんなに苦労しているのか分かるか?」
「え?」
エンリコは口を半開きにして振り返る。カルロはパン粥に視線を送り、食事をするように促す。カルロの視線に気づくと、エンリコはパン粥を口に含んだ。
「不思議だよなぁ。俺達の仕事って、代わりはいくらでもいるんだもんな」
カルロはエンリコが何かを言おうとするのを遮る。エンリコは黙って口にパン粥を含み、咀嚼した。
「それなのに、神様はさ、俺達を手放してはくれないんだよな。これが試練って奴なのか、どうなのか。俺にはよくわからないけどさ。代わりはいくらでもいるはずなのに、俺達に与えられた名前は一つでさ。たまーに、同じ名前の奴、いるけど。それでも体は一つしかない。帰る家だって、一つしかない。俺達はそうやって、いろんなことを『諦め』なくちゃいけないんだよな」
大運河に中型船が入り込む。それは彼方のリオート橋を通り抜けようとする。向かいの夫人が湿気に鬱陶しそうにしながら悪態を吐き、洗濯物を干す。海の彼方には物価の上昇に喘ぐ船舶の幻が見える。水面を渡るゴンドラが顔面蒼白の男を運んでいく。ため息橋では今日も罪人が海の彼方を見据えているのだろう。フェデリコが今も商談に頭を抱え、それを微笑ましく眺める商人の姿がエンリコの目の前をよぎった。
カルロは憔悴しきった男に屈託のない笑顔を向けた。
「代わりはいても、速い奴と遅い奴はいるし、それで十分だろう?贅沢なお坊ちゃんだな、お前も」
エンリコの目に光が戻る。繰り返される毎日の山は机の上で黙って主人の帰りを待つ。灯したままだった蝋燭の火も、寂しそうに空を見上げている。フェデリコが酷く疲れた顔で、扉の前を横切る。
溢れんばかりの光によって、くすみ切った彼の色彩が戻る。商売道具の帳簿や、参考書の中に、長らく眠っていた数学の本が光る。タイトルは『スムマ』、そして隣には、埃を被った薬学の本がある。主人を求めて退屈そうに眠る多くのモノ達が、部屋の中に詰まっていた。
零れる滴が何なのか、か細い手をした男には分からなかった。何故零れるのかも、判然としない。ただ、そこに宿るのは、「必要とされたい」という漠然とした願望と、「必要とされなければならない」という明確な責務の狭間で揺れ動く、酷く貧相な肉体の男の、情けない思いだった。




