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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第六章 大国の狭間で
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兄と弟のビス5

「あぁ?お前が整備士なのか?」


 夜の展望台に立ち寄ったフェデリコが、怪訝そうに眉を顰める。


「悪いか?」


 カルロは食器を片付けながら答えた。彼の足元をくるくると回る猫を、チコが楽しそうに追いかけている。カルロは鬱陶しそうにチコを足で払いながら、猫のしっぽを踏まないように慎重に給湯室へ向かった。


「いや、悪くはないけどさ……。だってお前、一年目だろう?」


 フェデリコはきまりが悪そうにカルロを見る。カルロは以前のフェデリコとの会話を思い出しながら、顔を綻ばせる。


「今年で二年目だな。……まぁ、別に俺一人じゃないから心配するな」


 桶に食器を入れると、食器に着いたソースの一部が浮き上がる。カルロは洗剤と食器を漬けた水独特のぬるりとした感触に、取り出した手を何度も払う。天文室に顔を覗かせる頃には概ね水分が跳ねており、彼はズボンで手を拭った。


「……汚いぞ」


 フェデリコは先ほどよりも不快そうに顔を顰める。カルロはズボンを払い、服を見回した。


「ん?何が?」


 フェデリコは不服そうにため息を漏らす。カルロは気に留めず、フェデリコと向かい合って座った。

 チコが、場違いなほど威勢よく猫を呼ぶ声がする。猫は窓の桟にしがみつき、尻尾を大きく振りながら呑気に欠伸をした。

 猫の背後の夜景はいかにも美しく、白い建物群の間を血管のように流れる運河が星の隙間をその身に映している。


「まぁ、あれだ。あんまりでしゃばる気もないし、ベテランもついてるからさ。お前は船酔いの心配でもしとけよ」


 カルロは口の端を持ち上げる。自らの渾身の冗談に、満足げに膝を叩いた。

 一方、フェデリコは真面目な表情で答える。


「船酔いはしないだろうけど……」


 カルロは静かに項垂れるフェデリコの様子に疑問を抱いた。フェデリコの視線は机上の一点を見つめ、カルロには向かわない。猫の呑気な欠伸に応じて、チコが「にゃぉーん」と鳴く。カルロはそちらを一瞥したが、猫と戯れるチコが余りにも嬉しそうにしているので、注意する気も起きなくなった。

 カルロは前かがみになり、フェデリコの顔を覗き込むようにする。


「どうした?何かあったか?」


 フェデリコは視線をそらし、少し間を開けて重い口を開いた。


「僕さ、兄さんに嫌われてるのかなって……」


「何かあったのか?相談に乗るぞ」


 フェデリコはカルロを見る。やや幼い印象を受ける顔立ちも相まって、潤んだ瞳は子供のようにも映る。しかし、身長差のせいで、カルロは見下ろされていた。


「実はこの前さ、仕事手伝おうと思って話しかけたんだけど、追い返されたんだよ。それから、兄さんずっとピリピリしていて……」


「仕事のし過ぎで疲れてるんだと思うぞ?」


 カルロは率直な意見を述べる。フェデリコは唇を尖らせた。


「じゃあ何で手伝いを断るんだよ」


「えぇ……それは……」



 カルロが答えに窮していると、満天の星空を我が物として猫じゃらしを振っていたチコが、屈み込んだままの姿勢で答える。


「貴族とはプライドの塊だ。何となく、追い詰められているんだろうよ」


 チコの低い声が部屋に反響する。猫じゃらしの動く速度が遅くなると、その毛は簡単に猫に潰された。あちこちと動き回っていた獲物を捕らえた猫は、それを何度も叩き、小さく欠伸をする。


「どういう事ですか?」


 カルロは聞き返す。チコは猫じゃらしから手を離し、立ち上がった。その手を老人のように腰に当て、猫背のままで夜空を映す硝子にゆっくりと近づく。


「仕事が彼のすべてなんだよ」


「……はぁ」


「あぁ、わかります。僕にもそういった記憶があります」


 床の中から顔を覗かせたビフロンスが答える。二人は驚きの余り飛び上がり、ビフロンスを見下ろす。彼は何かの作業中らしく、肩をかなり激しく動かしている。微かに悲鳴が聞こえるため、二人のあらぬ想像を掻き立てた。


「仕事というのは、役割を与えられていることに等しい。それがアイデンティティとして十分に成立してしまうのも、避けられぬことです。いいことかどうかは……もちろん人それぞれだと思います」


 呻き声に合わせて、ビフロンスは何かを下に押し戻す。思いきり体重をかけると、見た目に反してゴリゴリという強烈な音が中で響き、耳をつんざくような悲鳴が遠く地下深くから響く。カルロは既にフェデリコの悩みどころではなくなっていた。


「……その下に何がいるの……?」


「ごめんなさい、亡者が出たがって聞かないんです……!」


(あ、あの陽気な手か……)


 フェデリコは小さく溜息を吐く。カルロはそれに気づき、やっと思考を切り替えた。


「でも、仕事がしたいってことは、そのままの方がいいんじゃないか?」


「そうでもないよ。彼は既にパンク寸前だ。いくら優秀でも、何日も寝ずに仕事を続けるなど、不可能だろう」


 チコは奪われた猫じゃらしを取り返そうと、別のおもちゃを取り出す。猫は夢中で羽を剥ぎ取り、猫じゃらしはあられもない姿を晒した。


「あぁ!駄目ですって!引っ張らないで、止めて!あぁ、あぁ!」


 ビフロンスが突然喘ぎ始める。何かを引っ張られているらしく、その隙に手の一本がにょきりと顔を覗かせる。ビフロンスはその手を鷲掴みにすると、必死の形相でそれを捻り折った。ごきり、と痛ましい音が部屋中に響く。ビフロンスは今度は突然肩を震わせ、笑い始める。

 カルロはそれを遠い目で眺めた。


「は、は、は……ちょ、脇腹はやめ……ふへっ!」


 ビフロンスは笑いながら死者の群れの中に連れ込まれた。折れたままの腕は親指を立てると、そそくさと中に沈んでいった。


「何だったんだ今の……?」


「多分無事だから大丈夫だろ」


 カルロは吹きだしそうになりながら答える。折れた腕さえ呑気に親指を立てる地獄など、罰にもならない。


「しかし、エンリコが、か」


 塞がった地獄の穴を覗き込みながら、カルロは呟く。天文室に微かに響いていた悲鳴も消えると、彼の言葉は寂しそうに硝子窓に反響した。


「彼は元から狂っていたんだろう。君が来るずっと前からね」


 静まり返った天文室に、激しい足音が近づく。息伝いが伝わりそうなほどのそれは、一心不乱に階段を駆け上った。


「お坊ちゃま!エンリコ様が!」


「え……?」


 現れた使用人のただならぬ表情に、展望室が凍り付く。チコは立ち上がり、支度を始める。


「ダムが決壊したんだ。悪魔たちにここは任せる。君たちも支度したまえ」


 言葉を失い崩れ落ちるフェデリコを、カルロは担ぎ上げる。チコは粛々と支度をし、足早に階段を下りた。


「しっかりしろよ、落ち着いたらちゃんと歩けよ!」


 震える唇からは、意図のない謝罪の言葉が零れ落ちていた。

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