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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第六章 大国の狭間で
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エンリコ・ダンドロという男8

 夕刻の日は遠く、水平線に消えて行く朧な光は海面に乱反射する。本土に向かう快速船は不審な船舶を確認した。その船舶は海上に漂い、幽霊船のように静まり返っており、人が乗船していなかったのだという。国旗も掲げておらず、海賊船の疑いもあるとのことであった。


 僕は夕陽を映す白湯で手を温めながら、細切りにしたパンの切れ端を齧る。パン焼き職人の焼いた、パン耳の切れ端である。普段は切り取って捨てていた部分だが、こうして食べてみると中々に美味である。世の中にある仕事はどれも大事なものだが、地位の低いパン焼き職人はもっと自己の技術を主張するべきではないだろうか。

 新たなる発見を白湯で流し込み、片手間に食事をしながら作業を続ける。得意先との応対は何とか終業までに済ませたので、帳簿の整理と誓約書の作成をする。

 この非常事態でも大量の発注があるのは大変に結構だが、いよいよ紙が底をつきそうである。僕はなるべく端的に文章を書くことで、一枚の紙ですべての内容を伝えるように努めた。


 何者かがノックをする音がする。僕は「はい、どうぞ」と答え、作業の手を止める。


「兄さん、そのまま聞いて」


 僕はペンを置くこともやめた。


「なんだい、フェデリコ」


「兄さん、最近休んでないよね。大丈夫?」


 フェデリコは心配そうに訊ねる。僕は微笑ましく思い、穏やかな口調で答える。


「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう」


「そうは言っても、大学にも遊びに行けてないんでしょう?前は週に一度は行けていたのに」


「仕方ないよ、仕事なんだから」


 扉の向こうから差す光が遮断される。フェデリコの輪郭が窓の向こうに映る。僕は気にせず作業をする。今日中に纏めなければならない資料だけでも、終わらせなければならない。


「……あのさ、兄さん。僕って、そんなに役に立たないかな?」


 僕はペンを止める。思わず顔を上げ、ペンを置いた。小さく溜息を吐くと、蝋燭の火が揺れ動く。落ちていく夕陽が力なく水平線へと沈んでいく。水路を抜ける風が窓をガタつかせ、書斎は微かに揺れ動いた。

 僕は小さく息を吐く。


「誰がそんなことを言ったんだい?」


「……誰も。でも、兄さん一人で抱え込んでいる仕事が、余りにも多いと思ったんだ。兄さん、もっと僕を頼ってくれよ。僕だって、兄弟なんだから」


 僕の中で沸々と感情が湧き上がる。白湯はがたがたと揺れ動き、自然と瞳孔が開く。理解不能な脂汗が溢れ、やっとの思いで口角を持ち上げると、白湯が道化師のような皺塗れの顔を映した。


「ありがとう。大丈夫だよ。フェデリコだって、最近は頑張っているじゃないか。勉強も忙しいのに、昼間は荷下ろしを手伝っているし、それに……」


「カルロは一日仕事しているし、兄さんは夜通し仕事している。僕は朝はゆっくり起きて、荷下ろしを手伝って、あとは自分の事をしている。僕さ、やっとこうして、役に立てることが出来たと思ったんだ。ねぇ、兄さん。もっと頼ってほしいんだ。できる事はあまりないかもしれないけど……」


「止めろ」


 弟は黙る。

 沈黙した扉越しに、困惑気味に僕の名前を呼ぶ声が響いた。決して大きな声ではないはずなのに、酷く部屋に響く。騒々しい風の音をかき消すような呼び声は、何度も壁に反響し、耳を通り抜け、また書棚に反響する。白湯が揺れ動くほどの騒音に、僕は耳を塞いだ。

 同時に、騒音が止む。散らかった机上にある書類だけが、変わらずに僕を見ている。

 瞳孔が開く。鼻に風が通り抜け、変形した鼻の上を汗が伝っていく。部屋中に笑い声が響く。僕は商談用の笑みで返した。

 笑い声が通り過ぎていくと、中庭の喧騒が響く。荷物をおろす船乗りたちは僕に敬語で挨拶をし、荷物をおろしては去っていく。次々とやってくる荷物を数え、検品する。その後、届いた注文の束を捌く。数字が目の前を飛び交い、言葉が失われる。綴られた文字がひとりでに踊り始め、汗が机上に零れる。僕は咄嗟に資料をずらす。汗は静かに机の上に落ち、僕の顔を映した。


「……これ以上、僕の仕事を奪わないでくれ」


「兄さん、ちょっと、どうしたの……?」


「これは僕の仕事だ、あれも僕の仕事だ、僕の仕事だ、僕の仕事だ……!」


 仕事が零れ落ちていく。役割が失われていく。仕事を増やす。安らぎを覚える。働かなくてはならない。働かなくてはならない。働かなくてはならない。耳鳴りがする。歯軋りが止まらない。舌がのたうち回る。瞳孔が開く、瞳孔が開く、瞳孔が開く。


「出ていけ。お前に出来ることは何もない」


「兄さん!」


「帰れ!」


 尻餅をつく音がする。扉の前から影が消える。数字の羅列が目の前を通り過ぎると、いつもの書斎が戻ってきた。


 静寂に満たされた机上に、変わらず仕事が残っている。頭に上っていた血が下りてくる間隔を覚える。

 羊皮紙には汚れ一つない。ペンもインク壺の中を泳いでいる。僕はペンを取ると、インクが滲まないように付きすぎた分を払い、羊皮紙の上に突き立てる。誓約書の文字はすらすらと流れていく。


「仕事を、しないと……」


 夜分に、耳鳴りが続いた。

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