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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第六章 大国の狭間で
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エンリコ・ダンドロという男6

 結局、カルロの周囲の人々は物価の変動について話題に挙げることもなく、業務を終えた。後輩たちに混ざって片づけをしたカルロは、胸につっかえる思いを抱えながら帰路に着く。狭い街路から覗く夜空は疎らに漂う雲に所々を隠され、月にうっすらと雲がかかっている。入り組んだ街路から見える二階の窓には明かりが灯り、団欒の影がカーテン越しに窺える。


(あいつなら、教えてくれるかも……)


 カルロはダンドロ邸へと向かった。


 夕食を終えたダンドロ邸は閑散としていたが、中庭まで漏れる強い灯りは昼と見まがう程のものであり、普段と比べると些か明るすぎた。使用人もその手には資料を一杯に抱え、忙しなく廊下を通り抜ける。 カルロの予想通り、非常に多忙であったことが、彼にこの店の先行きへ対する更なる不安となった。


 少し向きを変えれば、カルロの目の前には新商品の宝飾品サンプルが陳列されていた。カルロはそれを見ながら、殆ど現在の当主と言って差し支えない、エンリコ・ダンドロを待った。

 宝飾品の価格は高額商品が中心であるが、一部安価な商品も取り扱っており、外地から輸入された宝石の他に、ウネッザの良質な硝子玉をふんだんに利用した、比較的良心的な商品もある。カルロは一つの大きな硝子玉をはめ込んだネックレスの価格を見る。宝石のはめ込まれたネックレスとは二桁違っていたが、それでもカルロに手の届く代物ではなかった。


 彼が思わず失笑を浮かべたままその商品に見入っていると、背後から急ぎ足で床を鳴らす音が響く。カルロがふり返ると、息を切らせたエンリコが、重そうな瞼を半開きにして苦しそうに微笑んでいた。


「ごめんね、待たせてしまって」


「いや、大丈夫。俺には手の届かない物を指を咥えて見てたから退屈しなかったよ」


 カルロがおどけて言って見せると、エンリコは胸元に手を添えて綺麗な礼をして見せた。


「よければ一つお包みしましょうか?お兄さん」


「御冗談を。俺には鋸と木槌が性に合ってるんでね」


 二人は会話を挟みながら、エンリコの部屋へと向かう。通り過ぎる使用人の数の多さに驚いたカルロは、時折その姿に気を取られる。両手の塞がれた彼らは、カルロと目が合うと必ず会釈を返した。



 エンリコの部屋は相変わらず整頓されていたが、積みあがった書類は溢れたままだった。書棚の空欄も埋まるほど、大転換のための多くの資料も見られる。資料の中にはいわゆる宝飾品の他にも、羊毛などのせいほうの特産品に関するものもあり、より専門的なものも存在する。積みあがった資料の山からは、エンリコ・ダンドロの並々ならぬ努力と、全ての資料を読みこなす類まれな英才ぶりがうかがえた。


 そんな彼は、部屋に着くなり大層深いため息を漏らし、席に着いた。カルロはその意図がいずれの事態に対するものかを判断しかね、多少の罪悪感さえ抱く。エンリコは深く座り、ややだらしない姿勢でカルロと向き合った。


「……ごめんね、ちょっと忙しくて」


「いや、こっちこそ。……大変なんだな」


 カルロは机上を見つめながら言った。エンリコは困ったように笑って返すと、背もたれに重心をかけて伸びをする。小さくついた吐息は、仕事に没頭するのそれ彼よりもいくらか蠱惑的に響く。


「うぅん、流石に参るよ。フェデリコも手伝ってくれているのに、押し寄せてくるものが多すぎて処理が追い付かない」


「それって……物価の事も、関係して、たり……する?」


 カルロはやや躊躇いながら、言葉を選ぶように詰まらせた。エンリコはそのままの姿勢でカルロを見つめる。位置関係から彼がカルロを見下ろすような姿勢となり、カルロからするとやや威圧的にも見えた。


「……鋭いね。思った以上に頭がきれるんだ」


「いや、まぁ。チコ先生が新聞の端を折っていたから」


「……そう。専門家からすると、あれは非常にまずい事態なんだ。しかも、何が原因でそうなっているのかが分からない。ダンドロ商会はもとから高級品が中心だからまだいい。それでも、新航路と向き合わなければいけない時期にこれというのは、アーカテニアの関与を疑わざるを得ない」


 エンリコは姿勢を前かがみに直す。蝋燭が背中に当たり、腰を曲げている彼の顔はどす黒い影に隠された。


「……なぁ、俺思ったんだけどさ。これって、アーカテニアが新航路から道を塞いでいたりするんじゃないかなって」


「……そうだね。新聞の物価一覧に載っているものは、連絡船や商船、外務会館からの報告をもとに作成されるものだ。つまり、ウネッザから遠くに行くほど、必然的に『古い』資料になる。この資料を前回の資料と二つ並べれば、確実に、時間が経つにつれて物価が上がっていることが読み取れる。星の巡りを見ていた老皇帝じゃないけれど、アーカテニアの新航路発見だって、ウネッザにある資料は、当事者からすれば『古い』資料なわけだ。つまり、君の言うとおり、アーカテニアが動き出していても不思議なことは何もない」


 エンリコの説明は、カルロに対する補足というよりは、自身の脳内にある情報を整理するように、淡々と、羅列的に行われた。カルロは黙ってそれを聞く。エンリコは言い切ると、前かがみの姿勢から再び背もたれにもたれ掛かり、硬直した肩を落とした。


「……だからこそ、僕はフェデリコが馬鹿なことを言い出す……ジロードとの協力関係よりも大事なものがあった、そう言ったんだ」


「……あ、異教徒か」


 カルロは呟く。エンリコは黙って頷き、顎を摩る。そして、カルロにさらに何かを察するよう求めるように、言葉の先を待った。

 カルロは黙りこくってしまう。


 暫く沈黙が場を支配する。オレンジの灯りは灯す対象に戸惑い、揺れ動く。空白を埋められた書棚はその重厚な本の数々を自慢げに見せびらかした。沈黙する二人の間の距離は遠い。そこを隔てるものはなく、ただ重苦しい空気が漂うだけであった。

 沈黙の狭間から、プレッシャーに押し戻されそうになるカルロの中に、来るべき答えが姿を見せる。しかしそれは、輝かしいものというよりは、警鐘を鳴らすベルのような重苦しいものであった。


「ちょっと待て……!それってジロードと組むのまずくないか?」


 エンリコは頷く。月に薄い雲がかかる。神の国と神の国の狭間で、運河は荒い波を立ち上げ始めた。

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