揺らぐ青雲1
チコの印刷依頼から二週間後、ナターシャはアルドゥス印字商店で印刷業務の手伝いを始めた。チコの紹介の成果と疑われたものの、カルロはその翌日に掲載された新聞記事を見て、アルドゥスの意図を察した。
カルロは朝の体操と合わせて、ジロード包囲戦からの日課として、チコが机に残す新聞を手に取るようになっていたが、アルドゥスの意図が透けて見えるその記事に思わず吐き気を催しそうになる。それは決して悪意ある記事というわけではなかったが、まるでナターシャを見世物のように扱っているように思え、彼は自然と舌打ちを零した。
パンを齧りながら新聞を流し読みしていると、カルロは物価の表を発見する。この表は、毎月二度行われる異教徒などと交易をする商船や、ウネッザの飛び地、各海外ウネッザ人居住区に備えられている外務会館から届く報せを纏めて記事に乗せたものであり、ウネッザからの距離や航海の過酷さなどによって各々の物価にかなりの時差が出ることに特色がある。主要貨物の物価指数などはその記載だけで大いにウネッザの市場を動かし、また、各地のウネッザ商人は素早く市場の流行に乗ることが出来た。
カルロはあまり関心を持たずに捲ろうとする。しかし、チコがその頁の端をしっかりと織り込んでいることに気付くと、その手を止めた。そして、不揃いの新聞の縁をくしゃりと曲げてリストを見た。
カルロは全くの素人ではあるが、この物価がウネッザの命運を分けるほどの重大な資料であることは理解していた。そのカルロが確認したところ、異教徒との交易により得られる主要商品である香辛料の価格が、ウネッザに近づくにつれて高額になっていることを確認した。
(いや、でも、原価じゃないはずだから普通なのか……?)
カルロは自身の無知から疑問を抱き、他の商品と比較する。そして、彼は驚きの余りパンを手から落とす。
そのデータを照合すると、一部を除き、異教徒との交易で得られる他の商品、特に香辛料や綿花、絹などの東方からの主要商品の物価が、異常に上昇していることを確認したのだ。
彼はその事実に思わず窓から外の様子を確認する。始業前のためか、その事実に気付いた者はそれほど多くはないらしく、人の往来はこれまでとさほど変わりないものだった。
「ちょっと、パンくず零れるじゃないの。拾いなさいよ」
すっかりマッキオ教会での生活に慣れたナターシャが机の上に落ちたパンを見て注意する。カルロは慌ててそれを拾い、口の中に押し込んだ。ナターシャはカルロの持つ新聞を一瞥すると、つまらなさそうに去っていく。
「……何が面白いんだか」
(面白くて見てるわけじゃないんだが)
カルロは喧嘩になりそうなので黙ってパンを飲み込んだ。そして、ナターシャに続き、職場へと向かった。
「そりゃあ、お前、中間コストって奴だろう」
「いや、そうなんですけど、そうじゃないと思うんですよ」
工員たちは物価には無関心であった。彼らの話題はもっぱらナターシャの独白を纏めた記事にあったこと、また、カルロが彼女とかかわっていたことに重点が置かれていた。
「しっかし、カルロも大変だったなぁ!親方に拳骨食らってまで遅刻したってのに、得るものなしなんてなぁ」
黙って作業を進める後輩たちに比べて、カルロの先輩たちは豪快に釘を打ち込みながら笑う。その釘が一切の歪み無く撃ち込まれていくのだから、カルロは何も言えない。
この日は、海も空も決して荒れ模様ではない。誰もが何気ない日常の一日と信じるのに十分なものであり、また、白い雲の流れる様も決して素早いわけではない。停泊場の待機船たちも気持ちよさそうに海に漂い、今にも船出をしたそうに上下左右に身を動かす。
「いや、まぁ。家が賑やかになってよかったですよ、それは」
「ははぁん、いい女だったんだな?」
「そんなことはないです」
カルロはすまして答える。反射的に海側に顔を向けてしまったので、工員達はニヤつきながら板を撃ち込む。カルロはその視線に耐え切れず、今朝の一件の印象もいくらか記憶から薄れてしまった。
「いいよなぁ、ハーレム!俺もハーレム作りてぇ!」
「俺は駄目ですね。結婚するなら一人がいいです」
カルロが答えると、どこからともなく「よっ、純情!」と声がする。工場が穏やかな笑いに包まれ、手を止めないままで片手間の会話は続いた。
「養いきれないしな」
通りすがりのカウレスが言うと、工員の笑いも失笑交じりのものになる。釘打ちの音もかき消す笑いに、カルロもつられて笑った。
「夢がないなぁ、カウレスは。一山当てるとかあるだろうが?なぁ、カルロ」
カルロの反対側で作業をするメルクが言う。カルロは先ほどの発言が試されているのではないかと考え、苦笑いで返した。
「こぉら、お前ら!ハーレムを作る前に船作れ!」
フェデナンドの声が響く。甲板を揺らすほどの大きな声に、多くの工員は作業の手を速めた。
「そうは言っても、親方だってほしいでしょう?ハーレム」
「あぁ?俺は御免だな。これ以上妻が増えたらと思うと鳥肌が立ちすぎて皮が弾けるわ」
若い工員たちの半分が哄笑する。中年以上の既婚の工員たちは、引き攣った笑みを浮かべることしかできなくなった。
カルロはその日、一隻の船を完成させた。それは、砲台をいくつも持つガレアッツァであった。物価ともナターシャとも話題が逸れていく中、カルロは胸につっかえる思いを殺して、相槌を打ちながら、自分の作業に没頭した。




