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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第六章 大国の狭間で
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少女の選択

 その日、ウネッザの空には、どす黒い雲が厚く覆い、雨がぱらぱらと降っていた。

 マッキオ広場にあった穴は全て埋められ、やや修復の跡に雨水が貯まる以外には、特別に戦果の跡は見られない。この広場を穴埋めした職人たちは、既に元首官邸の大修復作業に移り、マッキオ広場は高貴な人々が傘をさして往来する程度の賑わいであった。


 マッキオ広場を通る人々は、時折ちらちらと通り過ぎる道の中心に置かれた人に視線を送る。彼らはそのまま興味なさげに通り過ぎ、各々の仕事に戻る。通り過ぎる道の真ん中にいるナターシャは、樽から顔だけを覗かせて佇んでいた。彼女の左右には兵士が立ち、樽には罪状がそれを示す絵画と共につらつらと記されていた。

 彼女は小さく呼吸をする。道行く人々は樽を一瞥しては通り過ぎていく。兵士は無表情で前を向く。ナターシャの伸び始めた髪を霧のような滴が伝う。滴は頭を伝い、樽の中に水が貯まる。彼女の素足が濡れる。


 彼女は空を見た。空には重苦しいカーテンが広がるばかりで、光の筋は現れない。彼方から、ため息橋を渡る囚人の、深いため息が聞こえる。彼女はため息のありかを探す。彼女にはため息橋を見ることが出来ない。

 彼女は諦めて前を向こうとする。その際、マッキオ教会の前に立つ少年の姿を認めた。彼女は微笑むと、再び前を向いた。

 樽の中に貯まる水の音は雨の音にかき消され、人々は彼女に構わず日常を過ごしに行く。彼女はただ前を向き、道行く人々の無感動な視線を堂々と受け入れた。



「寒かったでしょう?ほら、ちゃんと体拭いてね」


 モイラはナターシャにタオルをかけてやる。ナターシャは短く礼を言い、頭から下へと順に体を拭っていく。モイラの寝室に部屋干しされた彼女の服はびしょ濡れであり、重石のようにしおれたまま靡いている。


 ナターシャに与えられた処分は、民事事件としては度重なる窃盗行為に対する全額の連帯賠償、不法行為に基づく損害賠償であり、刑事事件としてはマッキオ広場での公開処刑……罪状を書いた樽の中に納まり、多くの人々の前でその痴態を晒すと言うものだった。

 民事事件としては決して軽くはないが、窃盗の刑事事件としては比較的軽微な処分であり、当該窃盗に至るまでの経緯にはナターシャに負わせるべきではない多数の外的要因があり、情状酌量の余地があること、また、贖罪の意識があると認められることから、裁判官一人の反対を除き、多数の賛成によって決められた。


 ナターシャは頭に掛けられたタオルで雨水の滴る髪を拭い、季節外れの暖炉の前で膝を抱えていた。彼女の瞳には特別な絶望の色も見えず、吹っ切れたような笑みさえ浮かべていた。モイラは湯を沸かし、ブリキの水差しに入れると、それをナターシャの傍に置く。彼女の短い礼を笑顔で返すと、モイラはその隣に座った。

 オレンジというには些か赤の強い暖炉の火が、気温に不釣り合いに肌をさらう。濡れた髪は直ぐに乾き、顔に汗が滲み始めるのを認めると、モイラは薪を弄って火を消した。


「そういえば、これから、どうしますか?」


「これから、か……。考えてなかったな」


 ナターシャは自嘲気味に言う。モイラは薪を弄りながら大きさの異なるコップのうち、小さいものを手に取り、湯を注ぐ。湯気とくぐもった音を立てた湯は、すぐにコップの中身を満たした。彼女は両手で微かに伝わる湯の温度を確かめながら、ナターシャを見た。


「新しい修道院長がもう一度あなたを誘ってみえるみたいですよ」


「あそこはいいや。別の人でも、何となく信用できない」


 ナターシャは口角を上げる。モイラは少しだけ湯を飲み、安堵の息を吐くと、伏し目がちに笑う。


「そうですか。そうですねぇ……」


 仕事に向かったカルロや、講義の名目で大学に赴き、自分の書籍を貸与させに向かったチコはおらず、教会に泊まる巡礼者も勿論出払っている。ユウキのベッドだったナターシャの仮のベッドは以前よりも周囲をきれいに整理され、女性らしい小物がいくつか散見される。書棚は埃を被ることなく、天体の書籍だけが変わらずそこにとどまっていた。

 モイラは湯を大きなコップに注ぎ、盆の上に戻す。ナターシャは躊躇いがちにそれを手に取り、その中を覗き込む。


「あの、さ。お婆ちゃん。私、お金が稼ぎたい」


 ナターシャは努めて明るく言う。モイラは穏やかな表情で目を細めた。 


「どうしてなんですか?」


「たまにだけどさ、私、男に生まれればよかったなって思うことがあるの。男は『自分の仕事』を持っていて、私達みたいに付き従うだけの人とは違う。修道院に入れられて……ううん、入れられる前から、なんとなくだけど、分かっていたんだ。外に自由に出られなくて、言われる前にご飯を作って、見られない場所で掃除をして、帰ってきた男の言われるままに過ごす。そういうの、もう嫌なんだよね」


 モイラは湯気を立てるコップを盆の上に置く。暖炉に燻っていた火が完全に形を失うと、末端だけが黒く変色した木がパサパサと音を立てて崩れた。


「どんな仕事をしたいんですか?」


「うーん……。分からないけど、どんな仕事がいいと思う?」


 ナターシャは無邪気に笑う。モイラは目を瞑り、膝の上で手を合わせ、首を傾げた。


「笑顔が似合う仕事がいいねぇ」


「それじゃわかんないよ」


 ナターシャは吹きだす。モイラは貰い笑いをする。


「読み書き計算は修道院でこっそり習ったけど……勉強はあんまり好きじゃないしなぁ。お店を開くにはちょっとお金がかかるし、裁縫はあんまりだし、改めて考えると良い仕事ってないなぁ……。」


「男の人は仕事を選ぶんじゃなくて、仕事に合わせるんだって、ユウキが言ってたねぇ」


「そっか。取りあえず働き口から探すっていうのもいいのかもしれないね」


「帰ったぞぉーい」


 三階の廊下にチコのご機嫌な声が響く。モイラは「お帰りなさい」と答え、立ち上がる。ナターシャがモイラの顔を追いかけると、モイラはいたずらに笑った。


「私の周りの男の人って子供みたいだから、私がしっかりしないといけないんですよ」


 ナターシャは目を細めて笑う。モイラはチコの呼ぶ声に答え、部屋を出る。

 ナターシャは一人暖炉の前に座り、少しだけ冷めたコップの湯を啜る。喉を通り過ぎる無味無臭と共に、彼女の喉につっかえていた思いが滑り落ちていく。彼女は満足げな溜息を吐くと、目を見開いて笑顔を作る。


「……よし!」


 暖炉に燻る煙はなくなり、蒸し暑い部屋には焦げた匂いが残った。

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