男装の少女1
「いってぇ……」
カルロは頭を押さえながら、少年の手を引く。少年はいくらか落ち着きを取り戻したようで、頬を膨らませながら、カルロから視線を逸らす。
日も長くなり始めたウネッザの夕刻のは如何にも美しく、夜の星空を映す水面とは違った、赤々とした輝きが細長く歪んで映っている。カルロ達は店を畳む男達の間を縫うように歩き、今朝の商店を避けて大回りでマッキオ広場に出た。
訝しむ少年を連れて教会に堂々と入ると、カルロは聖典の暗唱をする聖職者たちに丁寧に頭を下げて挨拶をし、そそくさと階段をのぼった。
「モイラ婆さん、ちょっと部屋借りるね」
カルロは少年の胸元を隠すためにやや前に立ちながら、階段から天文室で食事の支度をするモイラに言う。モイラは穏やかに微笑んだ。
「えぇ、どうぞ」
「すいません」
カルロは踵を返し、博士の部屋へ向かう。
掃除と整頓がしっかりとなされたモイラと博士の部屋は薄暗く、主人を亡くしたベッドが手持ち無沙汰に横たわっていた。カルロは少年をそのベッドに座らせると、自分は丸椅子に座る。足をベッドの下に滑らせ、少年の手はなるべく強く握る。
「なんだ、案外おとなしいな」
「どうなっても地獄だからな」
少年は皮肉交じりに笑みを浮かべる。カルロは溜息を吐き、燭台に火を灯す。獣脂の臭いと共に、周囲の書棚が彼らの視界に浮かび上がった。
「なんか事情があったんだろう?見たところ、お前は金に困ってなさそうだからな」
カルロは前かがみになり、少年と視線を合わせる。少年はやや身を引き、視線を外した。
「……逃げるためだよ。地獄から」
少年の応答に、カルロは大きなため息を吐いた。
「あのなぁ……。具体的に話してくれ。俺はお前みたいに文学的才能とかないんだよ。事実を!簡潔に!」
少年は小さく舌打ちをすると、ボソボソと自信なさげに囁く。
「修道院を抜け出すんだよ……」
「あぁ?尼さんなのか。何でまた……」
「結婚できなかったからだよ!文句あっか!?」
少年は取り乱して声を荒げた。カルロは身構え、少年を拘束する体勢を取る。少年は精一杯の、弱い力でカルロの手を払った。
「逃げねぇよ!」
カルロはきまりが悪くなり、体勢を戻した。
「……悪い。……結婚できなかった女が修道院に入れられるっていうのはよくある話だが、それが嫌だったのか?」
「男には分からないだろうな!踏ん反り返って威張り散らしていればいいんだもんなぁ!」
少年は畳みかけるように叫んだ。カルロは胸ぐらをつかみ、低く静かな声で言った。
「あのな、お前。具体的に簡潔に話せといったよな?お前の事情が分からないから聞いているんだ。いいか?具体的に、簡潔に、だ」
「そんな風に攻めるように言ってもいけませんよ、カルロ」
カルロは声を受けて振り返る。扉の前には、呆れたような表情をしたモイラが両手をそろえて佇んでいた。
「モイラ婆さん……」
カルロは苦しそうにする少年の胸ぐらから手を離す。モイラはゆっくりと少年の隣に腰かける。少年は二、三度咳き込み、荒い呼吸を整えた。
「ごめんなさいね。この子、根はいい子なのだけれど、少し乱暴なところもあって……。つらいかもしれないけれど、私達に話してくれませんか。大丈夫、口外しませんからね」
モイラは包み込むような微笑をたたえながら、少年の細い手を握る。静かに彼の手を包み込み、彼女を見る彼に頷いた。
カルロは足を外し、手を椅子に掛けて動向を見守る。少年は唐突に嗚咽を漏らし、モイラの手に大粒の涙を零した。
「あの修道院の中は地獄です。女たちは若い修道院長の世話係として、夜を共に過ごすのです」
「おい、ちょっと待て、そんな話聞いたことないぞ?教会の奴らはそんなことしてるのか?」
カルロが立ち上がり詰め寄ろうとする。モイラはカルロのすねを蹴り、鋭い目つきで睨んだ。カルロは縮こまり、席に着く。
暖かな蝋燭の炎に照らされた顔を、モイラが撫でる。傷口を触らないように気を遣いながら、彼女は目を瞑り、静かにでこを当てた。
「辛かったでしょう……。よく頑張りましたね。少なくとも、ここは安全よ。私がお願いしておくから、暫くはここにいなさいね」
少年は大きな声を上げて泣く。モイラは少年を優しく抱きしめた。カルロは怒りに打ち震えながら、床に視線をおろす。少女が泣き止むまで、モイラは彼女を抱き続けた。
「あぁ、途轍もなく、物凄いレアケースだけど、そういう修道院長もいるね。世俗上がりで性欲満々の新興貴族育ちのお坊ちゃんな上に、神様気分の勘違い野郎に多いよね」
少女と食卓を囲みながら、チコはいつも通り机の上を汚す。食欲のない少女は俯き、パンを両手で持ちながら静止している。
モイラが彼女の隣に座り、静かに紅茶を注ぐ。湯気を上げた紅茶は少女の不安と苦痛に歪み切った顔を映し出した。
「でも、普通の修道院や教会ではそんなことないですよね。ホントゆるせねぇ……」
憤るカルロを見下ろすチコは、口を動かしながら笑う。
「だからレアケースって言ったじゃないか。どこの世界にもいるんだよ。権力に身を任せて気持ちいいことしたい奴がさ。まぁ、貴族だと兄弟同士の骨肉の争いとかも多いからさ、本気で信仰心を持って机に向かう奴ばかりじゃないんだよ。何人か見てきたけど、ばれた後は本当に愉快なほど酷い目に遭ってたよね」
「……でも、どうしようもなくって、力じゃあ勝てないし、偶々隙を見てみげることはできたんだけど……」
少女は消え入りそうな声で言う。チコはあくまで陽気に、豪快に笑った。
「教会にも権力闘争があるから、マッキオ教会に耳打ちすれば、簡単に瓦解しそうだけどねー。話を聞く限り、大きな修道院じゃないんでしょう?母修道院も事を大きくしたくないだろうし、司教が肩を叩いてやれば、その男はそれで終わりさ」
「揉み消されるとか……」
「無いね。聖職者というのは一般的に信仰心を持つ人間ばかりなんだから、彼らは良心の塊さ。不正を許すことはない。特に、ウネッザでは貴族の力も弱いから、揉み消すにしても一族の恥さらしをそのままの地位に置くことはできないよ。教会の権力がこの町では弱いとしても、こっちには、もっとすごい後ろ盾もあるしね」
チコはカルロを見る。カルロは眉を顰めて首で視線を戻すよう指示する。チコはからからと笑い、肉に齧り付いた。
「君は聖職者を見下しすぎ。彼らは人間として努力し、研鑽を続けたからこそあそこにいるんだ。私のような興味本位で周囲をからかって回るような物好きとは違う」
「自覚はあるんですね……」
カルロが呆れ顔でチコを見る。チコは口についた肉のソースを舐めとる。
「私みたいな奴がいないと世界の発展が遅くなるのも事実さ。精神の研鑽者と学堂の革命児。まぁ、適材適所って奴だねぇ」
チコは心地よい咀嚼音を楽しみながら、紅茶で肉を流し込む。彼はカップで項垂れる少女をさしながら、喉を鳴らした。
「あぁ、そうそう。君は金に困って修道院に入れられた口だろうから言うけど、両親にあんまりひどいこと言わないようにね。揉み消すための賠償金でぼろ儲けした事例もあるから。まぁ、売春宿に売られたと思ってあきらめたまえ」
カルロは次の料理に手を出すチコから料理を奪い、呆れ顔で溜息を吐く。
「……そういう事言うから最低なんですよ?」
「彼女の気が休まるかどうかなんて知った事か。彼女はこれからもその重荷を背負って生きていくんだ。今のうちに差別に馴れておくべきだ」
カルロは取り上げた料理をチコの口にねじ込む。苦しそうに口を動かすチコの口に料理を押し込みながら、少女に苦笑した。
「あー、あー。悪い。こいつに関してはぼこぼこにしても誰も怒らないから、好きにしていいぞ。えっと……」
「ナターシャ。ボコボコにしても何も出ないからいいわ。後で賠償金貰えたら許してあげる」
「んんんんん……!うぅんんん……!」
チコは苦しそうに唸りながら怒る。抗議の意味を察したカルロは手を離し、ナターシャに申し訳なさそうに苦笑する。ナターシャは視線を逸らす。チコの喉が動くたびに夜はいよいよ深まり、月は四人を照らし出した。




