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造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第六章 大国の狭間で
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エンリコ・ダンドロという男4

 咀嚼する音はペン先の擦れる音によく似ている。砕ける食材のあらゆるものが滲み出る感触は、インクが羊皮紙に垂れる感覚とも錯覚する。言葉の端々にあるものを嚥下して漏れる音は、酷く小ざっぱりとした、小奇麗な言葉ばかりだ。例えば、得意先の出産祝いや、弟の自慢話や、父の説教、ミトラを被った高貴な人の言葉、そして、唇から零れる僕の声だ。

 中庭から積み荷を降ろす様を監視する役目を与えられたフェデリコは、酷く似通った運命の相手と共に、運び込まれる大量の積み荷に目を光らせる。時折穏やかな表情になるのは、隣の女性と目が合ったときで、決まって頬を赤らめて視線を逸らす。時々股間が動くのを見ると、ダンドロの血も安泰ではないかと思う。


 中庭を覗くことのできる回廊は、窓から差し込む光だけを受けて部分的に明るく、サッシと格子の陰がはっきりと床の上に映る。穏やかな午後の陽ざしと蒸し暑さを感じる湿度の高いビル間の空気は、ウネッザが落ち着きを取り戻したことを直に感じさせるものでもあった。空の青を切り取る中庭へと見上げれば、千切れた雲の流れゆく様を確かめることが出来る。

 脇に抱えた取引帳簿は、次々に書き込まれる数字の羅列に辟易し、疲弊して表紙の端をほつれさせている。そうした先に見る中庭の様子は、とても同じ家で過ごす家族とは思えない。陰ることのない艶やかな少年の笑顔や、柔和な笑みを浮かべたかと思うと大きな口を開けて笑う少女の、リラックスした目尻が穏やかな輝きに満ち溢れている。


 僕は使用人たちを携えて、ペースを落としながら次の会議室へ向かう。目に焼き付ければ失明しそうな幸福を噛みしめていると、現実へ引き戻す焦げ茶色の扉が現れる。陰に隠れて壁と同一したそれを、静かにノックし入室すると、久しぶりに帰宅した父が前年期の会計を事細かに確認していた。


 僕はその脇に座り、ぞろぞろと席に着く幹部たち―中には本土に居を構える支部長たちもいる―に心の伴わない礼をした。彼らは商会の若い主人となって久しい僕に返礼をする。引き連れた使用人たちは彼らに薄めた紅茶を給仕する。


 机上には白いテーブルクロスがかけられているが、誰もが注目するのはそのテーブルクロスの末端、ウネッザ特産の繊細で美しいレース装飾である。彼らはそれを嫁の手土産にしようかと考え、構ってみたり、算盤を弾いてみたりする。会議室のカーテンを注目するものもいる。こちらのレースは花と翠玉をあしらったもので、宝飾品を思わせる繊細な糸遣いが窺える。

 勿論、棚の最上部に置かれた一つの硝子花瓶に目を奪われるものもいる。レースを取っても、その違いは一目瞭然、誰もが土産に困ることはないだろう。


 僕は机の下で父に秘密帳簿の中身を見せながら、人々の飛び散った視線の空洞となった机上の資料を静かに見下ろした。


「本日は御多忙の中お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。今年も皆様とこうして会談の席を設けることが出来ましたこと、誠に喜ばしく思います。初めてのお方も数名見えますので、改めて自己紹介をさせていただきますが、本日の司会を務めさせていただきます、ダンドロ商会ウネッザ支部、エンリコ・ダンドロと申します。本日は、宜しくお願い申し上げます」


 視線が一気に僕に集中し、疎らな拍手の音が響く。彼らのうちの幾人かには、ピアッツァ・ダンドロしか知らないようなものも居り、訝し気に眉を持ち上げる。勿論、僕はそうした人物と五万と出会っているので、丁寧に接すれば自然と仕事の仲間としてならば打ち解けられることも知っている。

 僕は一拍おいて、淡々と続けた。


「さて、我がダンドロ商会の前年期の決算報告は既にご確認いただいたと思いますが、幾つか重要事項だけを報告させていただきます。まず、プロアニア・ハンズ支部が開店して一年が過ぎました。ハンス代表が振るわれた敏腕、また皆様のご協力もございまして、上々な滑り出しとなりました。今年度もよろしくお願いいたします」


 再び拍手が起こる。如何にも興味の薄そうな、眠たそうな瞼達がふらふらと上下する。


「また、カペル・ペアリス支部は、一昨年同様大変素晴らしい成果でした。売上高は前年比107%、堅調この上なく、商会のペアリス進出に多大なご協力を頂きました、グランツ卿からも大変ご満足いただけております。今後とも、たゆまぬ努力と研鑽をお願い申し上げます」


 拍手が起こると、腹の出た支部長は手を挙げて答えた。貴重な逸材であることは言うまでもないが、僕としては、腹がつっかえないことを祈るばかりである。僕は声音を小さくしてつづける。


「えぇ、一方で、永年苦しめられておりましたエストーラ・ノースタット支部は、残念ながら閉店となる運びとなりました。これは私の力至らず招いた結果で御座います。誠に残念ではありますが、ご理解頂ければ幸いです」


 一同が押し黙る。一つ残った空席にいる両隣の人物は、非常に残念そうに空席を見た。僕は一拍おいて、予め用意した資料をに視線を落とす。


「……さて、ご存知の方もお見えかと存じますが、ウネッザの本部においても、非常に大きな動きがいくつかありました。主たるものとして、二つ取り上げなければなりません。

 まず第一に、ジロードによるウネッザ包囲戦による被害です。こちらは、船の出払った後でしたので、カペルの大市への航路は問題ありませんでしたが、東方航路については大きな被害が生じました。不幸な三隻が砲撃により沈没、その他の船舶も各基地の包囲による被害を被り、到着がかなり遅れてしまいました。急ぎ軌道修正をする必要が御座いますが、長期にわたる包囲であったため、納期の遅れはやむなし、という事で、ご理解と御協力を宜しくお願い申し上げます。

 そして、第二点目は、今後重要な論点として避けられないであろう、アーカテニアの新航路開拓で御座います」


 そこで、多くの者達が押し黙ったのは言うまでもない。白いレースばかりに気を取られていた人物も、余りの衝撃に椅子ごと飛び上がり、静かで気だるい会議の席は一転し、困惑に騒めき、悍ましく暗い雰囲気に包まれた。

 僕は父に視線を送る。父が咳払いをすると、物々しい雰囲気はそのままに、騒めきだけが一気に鎮まった。


「この件については、私から」


 常に最新の海の報せを集め続ける、公的機関としてのウネッザの知恵が、荘厳な口調で、残酷な真実を語り始めた。

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