戦勝の嵐
ウネッザは未だ盛大な戦勝記念の賑わいで溢れかえっていた。カタリーナ・ド・メディスへの暴行騒動は忘れ去られ、彼女が何処かに紛れ込んでいても誰一人見向きもしない。
露店にはジロードの象徴である王冠の絵を描いたコイン型のクッキーを売り、人々はそれを噛み砕いて談笑する。大運河は渋滞を起こすほどの船舶が寄港し、ジロードに向かう予定であったであろう異教徒の船も集う。
銀行は多忙を極め、次々に振り出される小切手に、裏書を連ねた手形が次々に貨幣へと替えられる。ドージェ金貨とドージェ銀貨の相場はうなぎのぼりとなり、現金の枯渇に喘ぐ両替商たちは細かな貨幣の両替を断るような事態に至る。
石工職人と建設業者はあちこちに駆けまわり、穴の開いた家を修繕する。
ジロードへのヘイトと勇敢な元首への賛美とを混ぜ込んだ錬金工房を縫い、憔悴した二人の若者は、ムラーノ教区の酒場へと逃げ込んだ。あちこちでジロードのコインを噛み砕く者達がいる中で、ムラーノ教区だけが静かに硝子細工を磨き、娘たちはレースを編む。
カルロとフェデリコが酒場の扉を開くと、がらん、がらん、とベルの音が鳴る。グレモリーが笑顔で挨拶をする。勿論、町娘の格好である。
「いっらしゃい!あら……カルロ君、フェデリコ君。好きな席に着いてね」
酒場も静かなもので、砕かれた元首官邸の窓を急ピッチで作る男達はまだ食事にはありつけず、騎士と夫人が客の中心であり、彼らは政治よりも音楽と絵画の話題で盛り上がる。二人は店の隅にある席に着き、周囲にある甘ったるい会話に安堵の表情を浮かべる。グレモリーが注文を取りにやってくる。
「僕はミルクでいいや。お前は?」
「俺、水でいいや」
「えぇー、何か食べ物も頼んでよ」
グレモリーは頬を膨らませる。二人は顔を見合わせ、メニューを見る。互いに道中のクッキーを思い出したのか、焼き菓子に目を止めると、ほとんど同時に小さく溜息を吐いた。
「鳥の素揚げ……」
フェデリコはやや不服そうに注文をした。
「俺も」
二人の投げやりな対応に腹を立てたのか、グレモリーは客への対応とは思えない程てきとうな返事をして、やや大股で厨房へと引っ込んでいってしまう。
グレモリーが見えなくなると、二人の周りには甘ったるい会話と黄色い声が目立って響くようになり、それはそれとして溜息を吐いた。
「なんだかなぁ……」
「カタリーナ誘わなくてよかった……」
フェデリコは安堵と落胆を込めて漏らす。カルロは両腕を机につけ、手に顎を乗せる。
「一人にしてよかったのか?」
「兄さんと一緒。安全の為に家に籠っているから、大丈夫」
フェデリコはメニュー表を見ながら答える。カルロほど姿勢が悪いわけではないが、腰は丸くなっていた。彼らの親ほどの女性の笑い声が店内に響く。カチャカチャと食器を準備する音をかき消したそれは、今度は夫への不満を自虐的に語り始める。あくまで笑顔ではつらつとした声であった。二人は鼻を鳴らして笑った。
「悪魔の話もお前の話もそうだが、ウネッザは奇妙な事件に巻き込まれるよなぁ」
フェデリコはメニュー表で表情を隠す。カルロは隠すものもないので、視線を談笑するマダムたちに向けていた。
「悪魔の話の発端はお前だろうが」
窓の外では煙突から濛々と立ち上る煙が空へと霧消していく。荷造りを終えた良質な硝子たちは、しっかりと梱包され、港の船に積み込まれていく。水夫は戦勝に沸き立つ海を隔てた本島に向けて出港する為に、帆の調整をしながら、積載を待つ。その中には、立ち上る煙を眺めながら、仕事を怠けるものも少なからずいる。
二人の席に二つのコップが乱暴に置かれる。ミルクと水は波打ち、水滴を持ち上げて再び元の群れの中へと戻った。驚いた二人は顔を上げる。グレモリーが目を瞑り、不機嫌そうに眉を顰めていた。
「はい、お待ちどうさま」
フェデリコはコップを手に取る。波打つミルクは小さな膜を作り、ほんのりと湯気を立てている。
「もうちょっと客に優しくできないのか?」
グレモリーは拗ねたように踵を返し、あからさまに不機嫌な様子で厨房へ戻ってしまう。二人は首を傾げる。
「なんだなんだ、注文が少ないだけにしては怒りすぎていないか?」
フェデリコが口に膜を付けて眉を顰める。カルロは彼に口周りを示すジェスチャーでそれを伝える。
「悪魔も仕事でピリピリしてるのかもなぁ……」
グレモリーは上機嫌な客にはしっかりと対応しており、二人以外の客が彼女の仕事ぶりに不満を抱く様子は認められない。しかし、カルロが厨房を見ると、彼女は普段よりもいくらか難しい顔をしていた。
「……それにしても、あの、ビフロンスとかいう悪魔って、グレモリーと比べると真面目というか、杓子定規なところがあるよな」
フェデリコは口周りを拭う。常にナプキンやハンカチの類を持ち歩いている姿は、やはりカルロとは違う出自であることを示していた。
「まぁ、悪魔もいろいろってことだろう。俺は真面目な人間も嫌いじゃないから、どっちがいいとかは思わないけどな」
カルロが水を啜る。硝子に湾曲して映った顔は、眉を真っ直ぐに伸ばして顎をゆがめている。
「なーんか、無理している気がするんだよなぁ」
フェデリコは眉を寄せる。彼はミルクの湯気が消えないうちに、口に流し込んだ。
暫くすると、揚げ鳥を盛りつけた皿が机に置かれる。そして、隣の席から椅子をずらし、グレモリーがそこに腰かけた。二人は呆気に取られて、グレモリーを見る。彼女は難しそうに眉を顰めた。
「私も混ぜて」
二人は断ることもできず、頷いた。




