表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
造船物語 アルセナーレにようこそ!  作者: 民間人。
第六章 大国の狭間で
101/151

ドクトル・ファウスト

 朝焼けと共にウネッザの朧げな輪郭が浮かび上がる。聖マッキオの展望台は澄んだ硝子の中に一杯に光を吸い込み、茜色の光を反射する。痛ましい傷を残す元首官邸に駆けこむ男は朝焼けに肌を焦がし、空を見上げることもなく通り過ぎていく。

 低く飛ぶ海鳥が一羽鳴き、答えるように群れが鳴く。岩礁に佇む彼らの影はいぼの様にごつごつとしており、無骨な岩肌に溶け込んでいる。彼らはウネッザを祝福するように朝日に輝く海原を歌う。

 黒いゴンドラは空の色に染まることもなく、相変わらず夜の色を海に落とし、係船柱に繋がれて漂う。潮風の臭いと纏わりつく様に漂う湿気は、変わらずウネッザに漂っている。


 赤々と光の灯る空を遮るように、展望台には書籍の山が積み上げられた。階段には吸い込まれそうな深淵が澱み、書籍に張り付くように群がる青白い腕から腐乱臭が充満する。朝焼けの色に照らされたその腕は、かえってグロテスクな痣と傷跡を鮮明に照らし出され、怪しさを増す。机上には簡素な朝食、小麦のパンと葡萄酒、炒った豆であり、普段よりもその減り方は穏やかなものだった。


 ビフロンスはカルロの傷口に右手をかざす。緑色の光と共に、消毒されたカルロの傷は少しずつかさぶたになり、かさぶたが剥がれて新たな皮が露出する。カルロは時折光の中に手を入れようとするが、ビフロンスが左手でそれを遮る。カルロは痒そうに貧乏ゆすりをし、遮られた手で頭を掻いた。

 チコは大事そうに黒猫を抱き、朝焼けの空を見つめる。空は群青から青色へ、そして茜色へと三色のコントラストを描き始めていた。


(どこもかしこも痛痒い……)


 カルロには、未だに昨晩の出来事が夢の中の出来事のように思えていた。

 しかし、教会に現れた黒い犬は酸のような唾液でカルロの寝具を焦がし、溶かし、その太く筋張った脚でカルロの腕を痙攣するほど疲弊させ、爪の跡が腕の動脈の付近に集中してつけられている。破れた服には黒い毛が絡まりつき、それが夢幻ではないことを物語っていた。

 空が青色に染まり始めると、礼拝堂から賑やかな人々の声が聞こえる。祈りの日の鐘が鳴ると同時にその声がおさまり、代わりに聖典の唱和が始まる。カルロはビフロンスを一瞥すると、ビフロンスは困ったように笑って見せた。


 教会の礼拝が済むと、カルロの傷跡もすっかり綺麗になり、腕の痙攣が治まるのを待つだけとなった。食卓には、炒った豆が主人を求めてじっと待ちわびている。小麦のパンはチコが勝手につまんでいたらしく、カルロの皿はすっかり空になっていた。


「はい、これで大丈夫ですよ」


 ビフロンスの言葉を受け、カルロは大きなため息を吐き、体中の骨を伸ばして鳴らす。腕や指を曲げ伸ばし、やっと食卓に着くと、皿を見てチコを睨み付けた。

 しかし、チコはそれに気づかない様子で、青空の向こうを眺める。まるで魂を抜かれたように口を半開きにし、目を潤ませ、黒猫を撫でまわす。猫は静かにチコの膝の上に蹲り、尻尾を振っている。


 ビフロンスが白い手袋を着けなおし、深く頭を下げた。


「さて、昨日はご協力ありがとうございました。感謝に堪えません」


「役に立てたならよかったです」


 カルロは笑顔で答える。チコは上の空のまま黒猫を撫でていたが、モイラが紅茶を注ぐ音に少し反応した。ビフロンスはつかない足を綺麗にそろえ、膝に置いた手を持ち上げ、紅茶に注がれたコップに手を掛けた。


「それはもう、本当に。メフィスト=フェレスほど悪名高く、また掴みどころのない悪魔はいません。素早く尻尾を掴めたというのは、本当に幸運でした」


 ビフロンスは自然に紅茶を飲む。砂糖も入れられていない紅茶は、目が覚めるほどの濃い茶色であった。カルロは紅茶に視線をおろす。紅茶の中には少しやつれた様子の時分の顔が映った。


「それにしても、何故、天文室を狙ったんですかね……?」


「星見の為だよ」


 カルロの何気ない発言に対し、チコが答える。紅茶を啜っていたカルロはむせ返り、チコを見た。彼はやはり上手く焦点が合っていない様子で瞳を震わせ、空の色を見つめていた。


「星と魔術、魔術と人、人と星は結び付く。そう言われていたからね」


「此方の世界の事は正直判りかねますが、僕たちの世界でもそのように星の巡りと魔法は強く結びついています。そして、月の周りにできた虹の帯ですが、あれこそが、メフィストの力の源泉なのです」


 モイラはティーポットを傍らに置き、初めて席に着く。スカートを静かにまとめ、音もなく下座に座った。ビフロンスは空間を歪ませて古い皮製の装丁本を取り出す。

 本はひとりでに頁をめくり、カルロ達には理解できない文字の羅列に小さな挿絵が添えられた頁を開いた。挿絵には、連なる山の狭間で肌を露出させた男女が人と馬の入れ子のような悪魔や、醜い姿の悪魔と賑やかに情事を交わす様子が描かれていた。


「これは……?」


 カルロはビフロンスを見る。ビフロンスは彼方の山に輝く光を示しながら、視線を書物に下ろしたままで答えた。


「魔女の集会、サバトです。魔女は悪魔と交わった者達、その種はあちこちに蔓延ると考えられています。そして、この馬のひづめの悪魔が、メフィスト=フェレスです」


「メフィストと契約をしたのは、彼、ヨハン・ゲオルグ・ファウスト。もとは錬金術師でした」


 ビフロンスは、メフィストと隣立つ細くほりの深い男を指さす。細長い輪郭と長い鼻、意志の強そうな鋭い目が描かれ、指先は長く伸ばした爪と、宝飾のない銀の指輪が目立つ。菊の花のような鮮やかな装飾を施したマントルを身に着け、一方で簡素なチュニックを身に纏う。カルロからすると、やや前時代的な衣装で描かれていた。


「ファウスト……」


「はい。彼に関するいくつもの創作は残っていますが、神学博士であると同時に、錬金術の研究中に爆発事故を起こして五体がばらばらに砕けたともいわれています。実は僕達もずっと探していたのですが、悪魔と契約して地獄にいるはずの彼は地獄には見つけられずにいたのです」


「それで、強く疑ったわけだね」


 チコは諫めるような鋭い声で言った。ビフロンスは縮こまり、目を伏せる。


「……はい。メフィスト・フェレスとの契約についての記録は地獄にも残っていましたので、メフィストに連れられてどこかへ消えてしまったのだろう、と長らく放置されていたのですが、今回の一件でもしかしたらファウスト博士ではないか、と悪魔の間でも話題に上がりまして、急遽僕がこちらに寄越されたわけです」


 ビフロンスに同情するカルロは、フォローを入れようと笑顔を見せる。それを遮るように、チコが語気を強めた。


「君としては、ウネッザにどうしてほしいの?」


「……もう一度、ファウストは来ます。今度は、ジロードとは無関係に。その時まで、警戒をしてもらいたい、としか言えません。ムスコールブルクも落ち着いてきているので、僕もこちらでお手伝いさせていただきます」


 ビフロンスは深く頭を下げた。チコは、初めてビフロンスに視線を送る。カルロが見たチコのどの視線よりも、鋭く、知啓に富んだ視線だった。


「だ、そうだ、カルロ君。君に任せよう」


「え?俺ですか?」


 カルロがチコを見る。チコは頭を下げるビフロンスを見たまま、静かに頷いた。カルロは呆気に取られて口を半開きにする。ビフロンスの絞り出すような呼びかけによって我に返った彼は、焦って頷いた。


「勿論、協力させてもらうよ」


「……!有難う御座います!」


 ビフロンスが歓喜に表情を明るくし、再度深い礼をする。チコは鼻を鳴らすと、再び視線を空に向けた。


「おぉっ、なんじゃこりゃ!」


 積み上げられた本の向こう側から、フェデリコの声が響く。ビフロンスは椅子から飛び上がり、鋭い視線を送った。カルロがからからと笑うと、殺気のないことに気付いたビフロンスは静かに座りなおす。硝子の向こうには、普段のウネッザが戻っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ