黒犬の輪舞6
「先生!」
チコは叫ぶカルロを一瞥したが、直ぐに視線をニッコロに移した。ニッコロは銀の杖を持ったまま、不気味な笑みを漏らす。カルロの声がこだまするほどの静寂の中、黒い犬が唸り声を上げて一歩を踏み出した。
「……死体の臭いがプンプンする。加齢臭も混ざっている」
黒い犬がチコにとびかかろうとするのを止めるため、カルロは咄嗟に尻尾を引く。そのままバランスを崩したカルロは、黒い犬と共に階段を転がり落ちた。鞭うつような体の痛みと、回転する視界を堪えながら、カルロは黒い犬を抑えつける。犬は唸り声を上げながらばたつき、馬乗りになったカルロに抵抗する。黒い犬の唾液は階段に零れ落ちると、炭酸のように音を立てて泡立ち、床を溶かす。カルロは自分の手がばたつきに合わせて少しずつ犬の口に近づけられていることに気付き、咄嗟に腕を外側にずらした。一瞬浮き上がった犬がカルロの喉元をめがけて噛みつこうとする。カルロは首を交わし、犬のこめかみめがけて頭突きをした。黒い犬は、叫び声をあげ、再び階段に押さえつけられる。
「くっそ……!抑え込むにも限度があるぞ!」
ニッコロは騒ぎを冷ややかな視線で見下ろし、銀の杖で床を鳴らす。
「もしや同業者ではありませんか?チコ先生。貴方なら、私のお気持ちを理解していただけるのではないかと期待しておりますが、どうかお話だけでも聞いてはいただけませんか?」
「少しだよ?」
チコが答えると、ニッコロは向き直り、頭を下げる。銀の杖で静かに階段を叩くと、月の周囲を包む虹の帯はさらに強さを増した。
「私は憂いているのです、人の世の理を。嵐は争いを産み、争いは命を奪い、命は嵐を呼ぶ。永遠の研鑽をする人は美しい。然し、世界は残酷にも快楽が蔓延っております。彼らは快楽の為に永遠の研鑽を妨害し、憂う者達は次々に倒れていく。命とは永遠の研鑽にこそ意味を見出すべきであるのに、我が世では永遠の研鑽が忘れ去られてしまいました」
ニッコロは上目遣いでチコを見上げる。チコは影を落とした顔に微笑を浮かべたまま、首で言葉を促す。ニッコロは光のない階段の上で、跪いて見せた。
「チコ・ブラーエ。命の輝きを知る者よ。生み出した嵐の中に、手を差し伸べるのは貴方こそ相応しい」
チコは頷いた。ニッコロはチコの言葉を待つ。日中のように眩い虹帯が照らす中、チコは冷たい声で言い放った。
「つまり、君は永遠の研鑽を邪魔するものを、この世から消し去るつもりなのかな?」
「ははは、少し違います。私は永遠の研鑽をする者達を邪魔しない世界を作る気でいるのです」
ニッコロは両手を広げ、天を仰ぐ。光の入らない階段から虹の帯を見上げ、恍惚としながら甲高い声を上げた。
「チコ先生、我々は試されているのですよ。そう、全ては遍く物を作りたもうた者に。教会は正しく聖典の言葉を語らず、過ちを認めない者達は人の間に蔓延る下劣なイドラに踊らされる。
貴方も見たでしょう?人々は人の輝きを見ず、専ら漠然とした括りを見るのです。このような世界で、人は永遠の研鑽に励むのでしょうか?否。
だからこそ、世界は変える必要がある!飴を以て人々を研鑽し、鞭を以て人々を制する。契約に基づく理想国家の誕生のためには、ウネッザの星見台が必要なのです。今こそ教会と、国と、争いから、人々の個々の輝きを開放するべきなのです」
ニッコロは両手を合わせ、虹の帯に跪く。黒犬の鳴き声と、カルロの絞り出すような声が遠くから響くと、ニッコロは銀の杖を取り直し、静かに床を叩いた。そして、チコに対して右手を差し出す。
「……学問とは、永遠の研鑽だ。そして、個々の輝きを開放すること、それは学者にとっては自由に考えを披露し、新たな真理を生み出すための試みだ。魅力的な考えだね」
「そうでしょう。それではそこを退いて頂きたい」
ニッコロは歓喜の余り声を裏返す。チコは静かに微笑み、目を細めた。
「然し、不可能だ」
ニッコロは表情を曇らせる。チコは目を細めたまま、虹の帯を見上げた。
「イドラは消えない、偽りはなくならない、争いは繰り返す。はっきり言おう、ならばすべてを自由に任せるよりも、縛られたままの方が余程いい」
「なぜ……?」
「争いが少なくなるからだ。集団とは、その為の盾でもあるんだよ。教会は秩序の為にあり、国家は防衛の為にある。個々人の自由が認められるには、まだ世界は若すぎる」
虹の帯が持つ光は弱まり、入れ替わるように雲が月を隠す。逆光により強調されたチコの顔も、陰の中に隠れていった。暗闇の中では、銀の杖で床を叩く音がする。その音は一定の間隔をあけて階段の中に響き渡る。
「残念だよ……。貴方ならば、理解して下さると思ったのに」
「君はそんな事よりも、四肢を束ねたほうがいいのではないかな?そちらの方が、私に頼るよりも近道になるのではないかと思うのだけどね」
チコがそう言うと、ニッコロは驚きの表情を見せる。そして目を凝らすと、間を置いて乾いた笑い声をあげ、銀の杖をついた。
「私の肉はすでに犬に食べられているのだよ。なぁ?メフィスト」
黒犬は突然動きを止める。息を切らせたカルロは、勢い余って犬の前足を叩きつけた。彼は突然無くなった手応えに思わず困惑の声を漏らす。そして、黒犬は牙を剥く。
「左様でございます、あるじさま」
高い男性の声が、粘り気のある唾液の中から発される。カルロは思わずその手を緩めた。
「喋った……?」
「とはいえ、メフィスト。こちらは一柱、あちらは二柱だ。どう思うかね?」
黒犬から突如として黒い靄を放ち始める。カルロは思わず仰け反り、姿勢を崩した。
黒い靄は不規則に漂いながら、人の形をとる。そして、黒い靄は黒いスーツに姿を変え、黄色の肌が現れる。頭にはシルクハットを被り、カルロに馬乗りにされたまま、不気味な笑みを浮かべる。
「そうですね……。取るに足らぬ悪魔であれば問題はないのですが、ソロモンの悪魔はぞろぞろと群がる傾向がございます。今ここで片付けるならば……」
ひとりでにチコの書籍が階段を下る。雪崩のように押し寄せるそれを見て、メフィストは目を見開いて笑った。
「ビフロンス様ですか……!これは困った、グレモリー様にビフロンス様では、こちらは分が悪い」
カルロはそのまま雪崩に押し流され、階下に転がり落ちる。メフィストは靄となって霧消し、消えていった。
「……っぶは!」
カルロが書籍の山から顔を突き出すと、そこにいたはずのメフィストも、チコの前にいるはずのニッコロもいなくなっていた。
「カルロ様、動かないで下さい」
階段の壁から身を乗り出すビフロンスは、ゆっくりとカルロに近づく。カルロは言われるまま止まる。
書籍の山はひとりでに浮き上がり、展望台へと戻っていく。ビフロンスはカルロの元で屈み込むと、腕や足を触る。カルロの体には、所々に打撲傷や擦過傷があるほか、服には黒く焦げた跡が残っていた。ビフロンスは申し訳なさそうに眉を下げた。
「申し訳ありません。中身を見たところ、骨折等はないようですが……。痛むでしょう……」
「まぁ、とりあえずは……」
カルロは身を起こす。「いってぇ……」と呟き、階段を上っていった。ビフロンスは心配そうにカルロに付き添う。カルロはビフロンスの頭を撫でると、笑顔を見せた。
「大丈夫だって!それより、これからの話をしないとな」
ビフロンスは頷く。
「その前に、治療をさせて下さいね」
雲は月から離れ、再び黄色い輝きを放つ。虹の帯は見られなくなっていた。




