10-2
◆◇◆
グラッサ=ヴァスティモ。
周辺国も決して無視できないほど巨大な財力を握るグラッサ財閥の家に一子として生まれた。
グラッサの家は表では貿易を行い、裏の顔を覗けばそこには闇が広がるほど手広く商売をしている。
なに一つ不自由することなく欲しいものは全てを手に入れてきたヴァスティモへと送る周囲の視線は羨望であり、強い妬み嫉みを孕んだものだった。
決して下を見ることのないヴァスティモの人生のなかで初めてだ。膝をつかされ、埃の積もった地面を見つめているのは。そして他人に見下されたのは。
「なんだてめえ。そんな道の真ん中にぼけっと立ってるんじゃねえよ」
ヴァスティモを見下ろしたのは鳶色の双眸だ。目端が吊り上がるように尖り、悪人面をこうまで体現した顔はそうは見ない。
「ななな……」
見下ろす男に対してヴァスティモは言葉が出てこない。媚びへつらう者たちが絶えないなかでこんな扱いを受けたのは初めてだ。
「ボスっ!」
膝をついたまま倒れるヴァスティモをすかさず傍らにいた大男が持ち上げ起こす。
「なんだよ。自分で立てねえような赤ん坊か?」
黒いマントを羽織った男はかつっと足を踏み鳴らして一歩ヴァスティモの傍による。
男の背で黒いマントが広がり大きく揺れる。
「ヒュウ殿!」
「ん。お前らもいたのか」
連絡通路から出てきたリンダラッド達にヒュウは相変わらずな歪な笑みを浮かべた。
「なんかうるせえ音がしたから来てみればどこぞの小デブが喚いてるじゃねえか」
ざんばらな髪をかきながらヒュウ=ロイマンは目の前に立つ樽型の体をしている男を睨みつけた。
敵意だけで満たされた視線はヴァスティモを挑発するには十分すぎるものだ。
「お、お父様! 大丈夫?」
「わ、私は大丈夫だ。それよりも彼を逃がさないと。ヴァスティモを怒らせては──」
腹を抑えながら立ち上がったエドガーはヒュウの方を見た。
教会の入口でにらみ合う二人の間に大男の片割れが割って入る。
「ゴルビー。こいつを倒せ」
「イエス、ボス」
苛立ちを込めたヴァスティモの言葉に対して大男は厳かに両手を上げるようにして拳を構える。
ネズミ這う酒場で正気か怪しい酔っ払い同士の見せる喧嘩とはまるで違う。脇を硬く締め、わずかに持ち上がった肩。そしてそこにうずめるような首。
大男の顔を握った拳が隠す。
「──っとぉ!?」
恵体から繰り出された拳が空気の壁を貫く。咄嗟に半歩動いたヒュウの頬を撫でる。
掠った頬からじくっと零れた血は筋をつくり顎まで伝う。
「ほお。テレフォンパンチとは言え私の拳をかわすとは大したものだ」
「あんたこそ図体のわりにずいぶんと早いんだな」
無表情だった大男の顔がハットの下でわずかに口角を持ち上げ笑みを浮かべる。
「屑に振るうにはもったいない拳だがボスを怒らせたことは万死をもって償わせる」
「いいぞゴルビー!」
「ヒュウさん!」
「ずいぶんと危ねえ武器持ち合わせてるじゃねえかよ」
ゴルビーと呼ばれた大男は再び拳をひき構えると同時にヒュウも腰に携えたレイ式銃の持ち手に手を添える。
空気が張り詰めていく。薄氷一枚の緊張が辺りを包む。
最初にその空気を破ったのは──
「やや、やめてください!」
「ステラっ!?」
ヒュウを庇うように二人の間に割って入ったステラに、大男が突き出す拳が鼻先でぴたりと止まる。
埃舞う教会の空気がステラの顔を撫でる。
殺意の塊であるその拳が止まらなければステラの整った顔立ちはいまや見る影もない肉塊と化していただろうことに、エドガーは肝を冷やす。
「戦いの場に女は邪魔だ」
「こ、ここは教会です! 神に祈る場であって、決して血を流す場ではないです!」
目尻に浮かび上がる涙を拭くこともせず突き出された拳をステラは睨む。
「ゴルビーそこまでだ。
エドガー。あんたがこの土地を譲らないと私も少々強引な手に出ることになるからその辺は十分承知しろよ。
強引の意味くらいはわかるだろ?」
服についた埃を叩き落としたヴァスティモは再び葉巻を咥え先端に火を灯す。
大男の片割れがその手にレイ・カードを見せつけるように構える。
交渉の余地などない。
圧倒的な武力による優位からの一方的な略奪だ。
「今晩もう一度返事を聞きに来る。
その時の答え次第では……覚悟しておけよ。行くぞゴルビー。ガルビー」
『はい』
「今晩は総力を持って『交渉』に出向くからな。お前らも自分のレイ・ドールを準備させとけ。
これでここら一帯俺様のモノになるわけだ。ふふふ……ッハハハハ!」
丘に響き渡る声で笑うヴァスティモの横で大男の片割れが自分の握った拳を見た。
太い節くれ立つ指が作り出す拳の甲には殴りダコが散見する。
「兄貴、あの男のこと思い出した」
不意に弟のガルビーが呟く。
決して揺れない無表情の仮面。兄以上に感情を感じさせない声がゴルビーの耳朶を静かに叩く。
「ヒュウ=ロイマン」
「名前は聞いたことあるな」
「綺麗ごとから汚いことまで金さえ出せばなんでもする奴だ」
「ライダーか?」
「いや、ライダーではないはず。所詮プライドも矜持も持たない野良犬だ。俺たちダリル兄弟の敵ではない」
「……」
──ヒュウ=ロイマン。
裏街道を歩いてきたガルビーの頭には数多の賞金首の名前が入っている。その記憶を漁っても出てこないところからガルビーの言葉通り、雑魚であり、その首に懸かった金額も子供のお小遣い程度のものだろう。
ただ一点。
野良犬と呼ぶにはあまりに狂暴で猛々しい目つきのなかに宿したぎらついた欲望の輝き。
その一点だけがゴルビーの脳裏に焼き付いて離れない。
◆◆△
「まずは助けていただいたことは感謝します」
机を挟んで椅子に座ったエドガーが立ち上がると綺麗に腰を曲げ頭を下げる。その先でヒュウは鼻をほじっている。
「てめえらみてえに殴られても黙ってる奴がいるからあんな野郎が幅をきかすんだよ」
「しかし私達は神の御名において暴力に暴力を返すような真似はしません。それが我らを導くのですから」
「けっ! 何が神の教えだ! てめえらのそんな教えなんて奪う側から知ったこっちゃねえんだよ」
ひどく不機嫌に口を尖がらせたヒュウは声を荒げる。
神などこの世に生まれ落ちたときから信じたことなど一片もない。いつだって欲しいものは自分の命を天秤にかけて奪い取ってきた。見えないものにすがり都合の良い出来事を待つだけの連中を見ると苛立ちが募る。
「くだらねえ」
「あっ、ヒュウ!」
呆れたとでもいうかのようにヒュウはどんと机を叩いて立ち上がるとそのまま連絡通路に通じる扉から部屋を出ていく。
「ヒュウさん!」
家全体が軋むほど強く閉じられた扉をステラは開き追いかける。
遠ざかる足音が次第に聞こえなくなったことを確認するかのようにエドガーは一分の沈黙の後、十分に蓄えられた白い顎鬚に触れながらリンダラッドを見た。
「彼の気を悪くしてしまったことは申し訳ない」
「いいよ。彼、いっつも不機嫌だし。ご機嫌取りたいならなんか値打ちものの一つでも渡せば喜んで尻尾振るし」
リンダラッドの言葉に対して後ろに立つ輪蔵とリビアが腕を組みながら首を縦に頷かす。
「そ、そうですか……」
「それよりもこの土地のことはどうするの? 今日の夜にはもう来るんでしょ。時間だってそんなにないだろうし」
「何とかヴァスティモを説得できないかと……わかっています。ヴァスティモがこちらの話に耳など貸さないことを。ただ、私兵のレイ・ドールを持っている彼にいち牧師である私が出来ることなど……」
ヴァスティモに神の教えを説き、互いを傷つけあわない道を探す。それがどれだけの無理難題かなどその場にいる全員がわかっている。
「私はなんとか彼にもう一度話してみようと思います。皆さんはどうか巻き込まれる前にここを出て下さい」
「無理だと思うけどねー」
リンダラッドの言葉に後ろの二人も頷いてみせた。
「その時は刺し違えてでも……」
「……ヒュウさん」
「なんだよ?」
茜色の空を灯す紅の輝きがステンドグラスを通じて幻想的な線条にして鮮やかな輝きで教会内を垂らす。
長椅子の中央に両手を広げて座ったヒュウは連絡通路へと続く扉から顔を出した尼僧服を纏ったステラの呼び声に応える。
「お、お父様を助けていただいてありがとうございます」
募る苛立ちを吐き出して部屋を飛び出したヒュウは、湾曲した天井に描かれた壮大な創世神話をもとに描かれた宗教画を眺めながらぴくりともしない。
「俺様は助けた記憶なんてねえぞ」
「で、でも、ヴァスティモさん達の話に割って入ってくれて──」
「あいつらが俺様の通り道に突っ立ってたから蹴とばしただけで、お前のオヤジを助けるつもりなんてこれっっ────っぽっちもありゃしねえよ」
「あっ、そう言えば傷は大丈夫ですか!?」
思い出したようにステラは寄ってくるなり天井を見上げてるヒュウの頬にその磁器のように滑らかな白く細い指先が触れる。
「こんなんかすり傷程度だ。別に騒ぐほどのもんじゃねえよ」
頬を掠めた拳とそれを繰り出した大男の姿がヒュウの脳裏に浮かぶ。
まるで抜き身の刀の如く殺意を放つ拳。どれだけの血をその拳で啜ってきたかなど想像もできない。
「ててっ」
酸化し、茶褐色になった血液が瘡蓋となった部分をヒュウはぺりっと剥がす。僅かな痛みのみで剥がせば傷跡などほとんどない。手で触れてもまるでわからない。
どれだけ鋭い拳がヒュウの頬を掠めたのか。刃物で掠った傷でもこれほど見事なものにはならない。
「あ、あのヒュウさんはお父様のことを嫌いですか?」
「ああ?」
「あっ、えっと……その、お父様と話してるとき機嫌が悪そうだったので」
「嫌いに決まってんだろ。
相手はてめえの大事なもんを奪いに来てんだろ。それを交渉だなんて甘っちょろいもので……」
話していて再び苛立ってきたヒュウは眉根を寄せて皺を作ると長椅子から立ち上がり天井を指さす。
それを眉尻の下がったステラの瞳が追いかける。
「俺様はなあ、生まれて一度だって神なんてものに守られたことなかったんだよ。
泣いてるとき。傷ついてるとき。悲しんでるとき。誰かが俺様に救いの手を差し伸べたことなんて一度だってねえ」
今の旅に出る以前から路地裏でのヒュウの生活は平穏など最も縁遠いものだった。
ときに汚物に塗れ、ときに罪のない者を殺した。全ては金のためであり、そのためにあらゆる恨みを持たれている。
「泣いても、悲しんでてもやってくるのは不条理な強奪や暴力だけだ。良いことなんてなこれっぽっちも舞い込んで来やしない。
だからてめえの力で奪いに行くんだよ。喜びを」
天井の壮大な宗教画に向けてヒュウは腰に携えたレイ式銃を抜き、その銃口を向ける。
僅かに漏れる金色の輝きが縦長のバレルを繋ぎ合わせたような無骨な銃身へとゆっくりと移っていく。
全てを奪う『強欲』の輝きと歪な笑み。
「ヒュウさん……」
男の言葉は漠然としたものではなかった。
男が歩いてきた道程にどれだけの悲劇が転がっていたのか。それをこれ以上なく鮮明に表していた。
「俺様から何かを奪おうって奴に対しては絶対に諦めねえ。
あがいて、あがいて、傷つけ、逆に奪って、殺してでも自分の宝は奪わせねえ!」
「……相手が自分よりも強くてもですか?」
「死んでも渡せねえから『宝』なんだ! 自分の命を優先して軽々と相手に差し出せるようなもんを宝にすんじゃねえって話だ」
天井に向けた銃をゆっくりと腰に戻したヒュウは再びステラを見た。
浅紫の髪の下で瞳が煌めく。
「わ、私達も抗ったら勝てますかね?」
「さあな。神の奇跡ってやつが起きればわかんねえけど、助けてくれるかどうかわからねえ神様頼りよりも悪魔を頼った方が良いんじゃねえのか?」
「悪魔……ですか?」
「そっ。ここにいるじゃねえか。
金にがめつく、世のルールをことごとくぶち壊してきた悪魔のようなライダーが。もちろん報酬は貰うけどな。どうよ?」
ヒュウは親指で自分のことをびっと指さす。
「……」
ステラは俯いて考えた。
時間が経てばいずれヴァスティモが自分の宝であるこの土地を奪いに来る。
命を天秤の秤に乗せてでも奪われたくないものがステラにもある。
ならば答えなど考えるまでもない。
穏やかな性格を象徴する下がった眉尻がぐいっと持ち上がる。
「私なんかで差し出せるものがあるならなんでも渡します!」
「よぉーし。今の言葉しっかり覚えとけよ!」




