イリエの情景
「だって、どこ行っても似た反応なんだもん。
三ツ葉の趣味が写真だったなんて、そんとき知らなかったもん」
「大抵のものは高校で知ってたから、新鮮味がなかったんだ。
ゲームも図書館めぐりもアニメ鑑賞も。
……依利江の言いたいことはわかる。
私の考えがおかしいのは認めるよ。
ただ、今は話を続けさせてほしい。
生田緑地も目新しいものなんて期待せずについていったんだ」
「そうだったの?」
「松本出身をバカにしないでほしい。
背後に槍ヶ岳があるんだ。
生田緑地程度の自然なんて自然といわないよ。
しかもあの日は雨が降っててじめじめしててさ、最悪だった。
広場にブルートレインと〈デゴイチ〉標準型があったのは驚いたけど」
「デゴ……?」
「SLね」
「ああ、あったあった」
「生田緑地の第一印象はその程度だったんだ。
でも依利江は違った。
子供みたいに目をきらきらさせて、きょろきょろ周りを見渡してさ。
すごく楽しそうにスマホで撮ってるんだ。
最初、沈黙が嫌であえてそうしてるのかと思ってたんだ。
それが見当違いだって気づいたのは、広場の次に向かったアジサイ山だった」
アジサイ山は中央広場の隣にある、アジサイ満載の丘のことだ。
「上までは登んなかったけど、ちょうどアジサイ満開だったよね。
他になんかあったっけ?」
首を傾げて三ツ葉を見ると、彼女は杯を手に目を丸くしてわたしのことを見つめていた。
丘の斜面に、アジサイがさわわっと咲いていた。
自分の背より高いとこに花があって、小路がちょっとしたトンネルになっていた。
こんなアジサイに囲まれたのは初めてのことだった。
雨の音も心地がよくて、森全体が囁いてるような気がしたのだ。
でも、それだけのことだ。
あのとき三ツ葉がなにを思っていたのか。
そんなのは知らない。
彼女はどこか納得したように小さく頷いた。
「だよね、依利江にとってはあれが普通なんだ」
「普通って?」
三ツ葉は答える前にポーチからノートを取り出した。
『誰も素顔の私を見てくれない』と綴られた、あのメモ帳だ。
「依利江はアジサイの写真を撮って、それからこれを口ずさんだんだ」
三ツ葉は一ページ目を開いた。丁寧な文字で、こんなものが書かれていた。
ある朝あじさい味わい深く
よくあるあじさいさわわ咲く
よく見りゃあじさい空の色
こっちのあじさい紅い色
「これって……」
「私の原点。
依利江の見たアジサイの風景。
ノートを新しくするたび、最初に書くんだ」
写真を撮ったときに添えそうな一節だった。
書いた覚えはなかったけど。
ケータイからスマホに替えてからだったか、詩を書く機会は減った。
でも知らないうちに独り言をしてた可能性はある。
「これを聞いた途端、私は依利江のなにもかもを知らないことに気づいた。
この子は自分とまったく異なった感性のフィルターを通して世界を見ているんだと思った。
そもそもアジサイ山へ行ったときは夕方だったし、
〈さわわ〉がなにを意味するのかも謎だ。
だから訊いてみたんだ。
そしたら『なんでもない』って言って、別の話題にするんだ」
そんな会話があったかもしれない。
自分の思考が口から洩れてしまってて、それからなるべく考えを紛らすようにしたのかもしれない。
「これ以上は踏み出せなかった。
依利江の考えてることを聞きたかったけど、それはエゴだからね。
人の事情を軽視してとやかく言いたくなかった。
詮索される不快感は理解してるつもりだよ」
「人と同じことはしたくない。そういうこと?」
三ツ葉は頷いた。
「そのあとも、依利江は写真を撮り続けた。
その理由を訊いたら依利江は『感動したら写真に収めるんだよ』って言ったんだ。
朝起きて顔でも洗うみたいに、平然と。
『三ツ葉とアジサイ見たことも、これで忘れないよ』って」
それ、あの子の言葉だ。
中学のとき、撮ることの楽しさを教えてくれた、あの子の。
「でも、それ人の受け売りだよ?」
「受け売りだって構わないよ。
依利江がそう言ったから関心持てたんだ。
依利江は依利江自身のことを教えてはくれない。
だからカメラを通して知りたいって思ったんだ。
私がカメラを始めたきっかけは依利江、あなたなんだ」
「わたし……」
三ツ葉の撮る写真はとてもきれいで、構図がばしっと決まってて、
ずっと見てたって飽きない。
趣味でやってたわたしなんかと全然レベルが違ったし、目指すものだって違う。
「もっと前から撮ってるもんだとばっかし思ってた」
「それ以前は素人以下だよ。風景なんて撮ろうとも思わなかった。
スマホのギャラリーに入ってるのは本の写しばっかだったよ。
ただ、せっかく撮るならうまくなりたいから勉強を始めた。
生田緑地に足を運んだり、参考書を買ったり、展覧会に行ったりね。
参考書どおり撮ってみると上達したような気がして、どんどんのめり込んだ。
依利江が褒めてくれるのも嬉しかったんだ」
「努力量が違いすぎる……そりゃ、褒めるよ」
うまくなりたいから展覧会に行くって、そんなの滅多にいるもんじゃないと思うんだけど。
「あのころは楽しかった。純粋に楽しめてたんだ」
こころなしか声のトーンが下がった気がする。
じっと彼女の話に耳を傾け、口を閉じた。
お店のなかがいちだんと賑々しくなった気がする。
「自己表現のツールを手に入れたことは大きかった。
シャッターを押した風景が私の見た風景なんだ。
松本や多摩区の風景から始まって、だんだん全国の風景を撮るようになってね。
展覧会に通うと知り合いも増えていくんだ。
愛好家の人と話したり、紹介されたりね。
若くて女性で、行動力があって、社交性もある。
どうやら私は期待の新人って見られたらしい。
特に各地の写真を撮ってたことが大きかった。
今日の昼間さ、電車で地域振興に興味があるって話に触れたと思う。
要するに地方の写真を撮ってたら、地域振興をする団体と知り合えたからなんだ。
あるまちの観光協会サイトに写真が掲載されたこともあった。
いろんな人と知り合えたのは幸せなことだと思う。
けど違和感もあったんだ。
出会いがあればあるほど、この人は私のなにを見てるんだろうって、
ふと疑問に抱くことがある。
写真は私の見た風景を切り取ったものだけど、そこに私自身は写らない。
一方で個性を主張しまくる写真を撮る人もいてさ。
なおさら自分が撮る意義を疑ってしまうんだ。
自信が持てないのに、写真に興味を持ってくれる人は増え続ける。
私の苦労や悩みを理解してくれる人がどれだけいるんだろう。
このあいだね、構図や明るさを綿密に調整して、意図を持たせた写真を撮ったんだ。
その写真も取り上げてもらえたんだけど、
撮った場所だけが取り沙汰されて、地域振興の材料に利用されるんだ。
写真だけが独り歩きしていく。
その奇妙な感覚……あれは体感してみないとわからないと思う。
みんなの視線が温かくて、応援されてるって感じてしまえるからこそ、つらいんだ。
最近、なんのためにシャッター切ってるんだか、わからない。
私の写真を待ってくれてる人たちがいる。
これは間違いない。
でも自分は誰かのために撮ってたわけじゃないんだ。
今後どうしていくべきか。
選択肢は限られている。
私の写真を待ってくれてる人のために写真を撮るのか、
あるいは期待を投げ棄てて、趣味のカメラとして細々続けるか。
私には2択しか発想できなかった。
そして、どちらも誤った選択であることも理解していた。
ここ数ヶ月の悩みだったよ。
でも依利江は、悩んでるあいだも変わりなくそばにいてくれた。
やっぱり、不思議だったよ。
私のことなにひとつ知らないのにさ」
「当たり前だよ! だって、教えてくれないんだもん」
「その通りだ。
私は悩みを打ち明けなかった。
私だけじゃない。
依利江もだよ。
教えてくれなかった。
それこそ好きな人の話とか、
将来の話とか、
哲学とか、
真剣に話してくれたら私だって……。
これはね、自虐でもあるんだ。
私たちはうわべだけの付き合いだったんだ。
相手に興味を持ちながら、自分自身を隠していた。
だから、そう……」
言葉を詰まらせた。三ツ葉のお酒がまたすすむ。杯を空にし、日本酒をなみなみ注ぎ、それさえも飲み干した。
「私たちは言わなきゃ伝わらない関係なのだろう。
言わせてほしい。ありがとうって。
ガイダンスのとき、声をかけてくれて。
そして今、私の話を聞いてくれて」
彼女はふらつく頭をとすんと垂らした。
短めの髪がさらっと揺れて、牛タンの風味に混じってかすかにシトラスの香りが漂った。
そして目が合った。
このとき初めてわたしと三ツ葉はお互いの目を見合ったのだと思う。
鋭い視線のなかに澄み渡った水晶があった。
三ツ葉の目って、こんなにもきれいだったんだ。
だから彼女の写真は美しいんだ。
「わたしも、わたしもありがとう」
わたしの目はどんなふうに映ってるんだろう。
彼女の瞳にわたしの姿が映った。
面影がわかるくらいの距離。ぬくもりが伝わる近さ。
今だったら、なんだって伝わる気がした。
「一緒にいてくれて。旅、誘ってくれて」
「なんか、むずがゆいな」
「そうだね」
「だから口にしなかったんだろう。
あるいは、言わずとも通じ合えると過信していたのかもしれない。
でもそんなの、もはや些細な問題なんだ」
三ツ葉の言う通りだった。
「どこまで話したっけか。
――そうだ、私は悩んでいた。
写真を撮る意味についてだ。
そんなある日、今年の梅雨前だったと思う。
内山さんから被災地の話を聞いたんだ。
『あんな場所留まってないで、全員移住しちゃえばいい』ってね。
内山さんに対する反論、私自身の気持ち、カメラを持つ理由……
あらゆる答えが東北に眠っている気がしたんだ。
それ以降の話は高田で話した通りさ。
どんどん迷走していった。
依利江と一緒に旅をしたいと思ったのはそのときだった。
もし私が道に迷ったとしても、行くべき方角を指示してくれると思ったんだ。
誰かと一緒になにかをしたいだなんて、生まれて初めてのことだった。
これでも大英断だったんだよ」
彼女は頬を引きつらせていた。
旅のおさそいを受けた日、小田急線の新宿行、
ごく自然な振る舞いをしてたような気がするけど、内心はどれだけ緊張してたんだろう。
緊張する三ツ葉なんて全然想像できない。
「過去語りはこれでおしまいだ。
以降はこれからの話になる。
依利江のヒントが、私の道標になるんだ。
東北に来て、たくさん写真を撮ってきた。
その一部をSNSに公開してるけど、
きっと多くの人は単なる震災の現状を写したものだと思うんだろう。
そして私は称賛される。
被災地の今だ、って。
けどそれじゃあダメなんだ。
私が求めてるのは称賛に浮かれることじゃない。
ヴェネツィアは一千年自然と向き合ってきた。
だからヴェネツィアの文化が生まれた。そうだよね?」
わたしは頷いた。
「なら私は撮り続ける。
一千枚一万枚、撮り続けてやる。
本当に求めてるのは大切なものを撮ることなんだ。
長いこと大切なものが一体なにを示しているのか、わからなかった。
中途半端にある知識がフィルターになって、私だけじゃ見えてこなかった。
被災地を知ろうと覚悟して勉強して意気込んで、それで旅をしたって、
本当に求めるものは手に入らないんだ」
「覚悟……」
「覚悟なんて必要ない。
依利江は見たいように見たんでしょ。まちを、被災地を」
「まあ……うん」
「見たいように見て、その場だけの感動で終わらない。
依利江のは心から見たんだ。
依利江の情景は息づいている。
今も、これからも、いつだって思い出せる。
だから依利江」
三ツ葉が手を伸ばす。細くて白い指が、わたしの肩に触れた。
「私は私のやりたいようにシャッターを切って、いいんだよね?」
その唇は臆病すぎるほどかすかに震えていた。
彼女が小さく、いとおしく思えた。
「いいんだよ、三ツ葉。よく頑張ったんだね」
「うん……」
魂が抜けだしたかのような一言のあとで、彼女はくたりとカウンターに伏した。
慌てて食器皿を自分のに重ねた。
丸まった背中が呼吸に合わせてゆったり上下した。
「酔った」
やれやれ。
呟く彼女の髪をそっと撫でた。
頑張ったよ、三ツ葉。




