決壊、あるいは
φ
中学何年生の頃だったか、あの子から教えてもらった写真に、わたしはすっかりハマってしまった。
ハマったといっても、三ツ葉ほどじゃないけど。
いいなと思った風景を写メにして、
そこにポエムを散りばめて楽しむ程度には写真を撮るのが好きになっていた。
もっと自分の考えてることを言葉にしたくて、
自分の撮ったもののどこが好きなのかを観察するようになった。
じっくり景色を見てみると気付かなかった発見があって面白かった。
近いと思ってた雲が遠かったり、電柱を結ぶ電線が手を繋いでるように見えたりした。
平塚の砂浜の色が白じゃなくて黒いってことも、このときわかった。
風景を見ることだけじゃない。
生きものも、友達も、同じだった。
そういうものを見て、自分なりに理由を見つけるのが好きだった。
「ね、イリエってさ、あんまし写真、撮んないよね」
その日、わたしの親友はそう話を切り出した。
中学校の教室だったと思う。
まるで非難するような言い草なのはいつものことで、悪意があるわけじゃない。
「んー、結構撮ってると思うけど」
彼女は忘れっぽい子だった。
以前写メを見せたときのことを忘れてる。
わたしは覚えてるよ、写真の下に打ち込んだ詩を見て、「なにこれ」って笑ったの。
だから写真はこっそりやっている。
「いや、だって私が撮ってるとき、それ見てばっかじゃん。一緒に自撮らないし」
彼女はわたしの意見に対してNOで返す。
わたしの言ってることが間違ってるんだと思うから、違うと言ってくれると安心する。
けど、たまには一緒に共感する話がしたい、と思う。
「イリエ、自撮らないっしょ。せっかく誘ってんのに」
「ごめん、自撮りは苦手で」
なんかあれは、自分でも彼女でもない誰かが撮った写真みたいで、苦手なのだ。
でもこれからは自撮りも挑戦してみようかな。
なにか新しい発見があるかもしれない。
「せっかく写真教えてやったのにさ、つまんない」
高圧的で、ちょっと尻込みする。
「ごめん。これからは一緒にいるときもたくさん撮るよ。
ただちょっと、その、言われて撮るんじゃ、なんかシャッター押せなくって」
わたしは、わたしの感じたものを撮りたい。
それ以外のを撮らないのは、わたしがわがままだからだ。
これから直していけたらいいな。
「イリエ変なの。写メなんてカメラ向けてボタン押すだけじゃん」
カシャ。
彼女はわたしの顔を勝手に撮影した。
「なんかね、『力』になんない気がして」
「チカラ?」
彼女は間を置いて、盛大に笑った。
「ちょ、ウケんだけど。チカラって、なにそれ!
イリエいつの間にかバトルもんハマったの?
今季おもろいのあったっけ? つーか最近アニメつまんなくね? もう観ねえんだけど」
そして話題は移ろう。
四季みたいに、わたしの意志なんて関係なく。
――感動したものを写真に収めなさい。その積み重ねがお前の力になる。
そう教えてくれたのは、あなたなのに。
一抹の寂しさを抱えながらも、彼女が親友であることに変わりはなかった。
だって、ずっと一緒にいたからだ。
わたしは彼女のことをなんだって知ってる。
「イリエさ、ホントなんもしゃべんないよね。普段なに考えてんの?」
彼女からの質問だった。嬉しかった。
いつも考えてること。
一番の得意分野だった。これならいくらでも話すことができた。
そのなかで一個でも彼女が共感してくれたら、すごく幸せだ。
それに、次はわたしからも質問ができる。
彼女がどんなことを考えながら、わたしと一緒にいるのかを。
「わたしは、いろんなこと考えてるよ。
たとえば、えっと……風に揺れてるカーテンのこととか」
「は」
イヤな予感がしたから、違うたとえ話にする。
いつもはとろくて彼女の指摘のほうが早いけど、
この話題だったらカマキリより素早く切り替えられる。
「あと授業中の先生のこと。お昼前の授業中、ちらっと腕時計見たときとか。
お腹空いてるのかなって」
「はは、マジで、そんなん考えてんの? イリエおもろいね。他には他には?」
彼女が喜んでくれた。
「あとはね、――ちゃんのこと」
「……え?」
ぽそりとそう言った。
意外そうだった。
わたしは誰よりも――のことを考えてる。
――のことをたくさん知ってる。
ちょっと苦手なとこもあるし、できれば直してほしいとこもある。
だってわたしたち親友なんだから。
わたしが言えば、気を付けてほしいところは直してくれる。
だから、わたしはたくさん話した。
わたしのことを非難するように話を始めるとことか、
わたしの趣味を笑うとことか、
言うこと全部を否定するとことか、
高圧的なとこ、
勝手にわたしを撮るとこ、
一緒の思い出を忘れるとこ、
勝手に話題を変え……
「バ、バッカじゃないの!」
彼女は叫んだ。
「そんな、バカにして、まるで私がバカみたいじゃない!
バカじゃないの? なに言っちゃってんの?」
つばを撒き散らして、椅子を倒す勢いで立ち上がった。
その彼女の顔は、もう思い出せない。
わたしは謝罪した。
こんなことになるなんて想像していなかった。
言ったらちゃんとわかってくれるって、信じていたのに。
「じゃあ、じゃあさ、――ちゃんは? ――ちゃんは、どんなこと考えてるの?」
大慌てで話題を変える。
いつも彼女がしてるように。
「は、私?」
でもわたしがやると、いつも失敗してしまうのだ。
「決まってんじゃん」
それが最後の言葉だった。
「あんたをどう利用するか、だよ」
彼女はわたしの存在を抹消させた。
絶交、というやつだった。
φ
友達ってなんだろう。
わたしにはよくわからない。
わからないけど、あの子の背中を知ってる。
だから高校で繰り返したくなかったから、頑張ったのだ。
そして、耐えきった。
耐えきって……。
同じグループの子たちとは、クラスが変わると同時にぷっつり連絡が途絶えた。
今やどこの大学へ行ったのかすらわからない。
高校で友達は、できなかった。
わたしにはなにもなかった。
本当は思い出したくないことだけど、どうしても思い出してしまう。
ぼんやりあの子に会いたい気持ちになったけど、それを考えるのは旅を終えてからでも遅くはない。
今会うべき彼女は。
「三ツ葉、お待たせ!」
彼女はベンチに腰かけ、メモ帳にペンを走らせていた。
筆がノッているのか、紙面に顔を落としたまま「んん」と言った。
ビニール袋からペットボトルを出し、太腿の隣に置いた。
わたしは左隣に座り、一口のどを潤した。
暑さを思い出すように汗を感じたのは、風が吹いてきたからだろう。
正面に、松を模した像があった。中身をくりぬかれ、そこに立っている。
まるでわたしみたいだ。
なんて、安っぽい感傷にひたる。
懐かしさが込み上げるのは過去の思い出になったからなんだろう。
陸前高田市は相変わらず静寂を湛えていた。
時すら止まっていると言われたってなんら不思議ではない。
このまちはあの日を……正確にいえばあの日以前をずっと引きずっているような、そんな気がした。
「ここは、なんもないね」
独り言は、この地に降りたって最初に呟いた言葉だった。
「これ以外はね」
三ツ葉も独り言を洩らした。
そうだ、「これ」は残ったのだ。
音を失っても、「これ」だけは確かに残ったのだ。
そして、ふと違和感の正体を知った。
蝉の声がしない。
些細な発見だった。
静寂の答えだった。
「ねえ三ツ葉、ちょっと、いい?」
「なあに」
相変わらず俯いたまま三ツ葉は口を動かした。
「さっき、テントんとこでね、ショックなことがあったの」
「へえ、ぼったくりかなにか?」
「んーと、お守りを買わされそうになって。でもそういうことじゃなくて――」
「買わなかったの?」
「うん。思うことがあって」
「それがいいよ。そういう人からはなにも買わないほうがいい」
三ツ葉はすらすらと、まるで事前に答えを用意してたかのような語気で続けた。
「依利江は騙されやすいから心配だったんだ。被災者はノアじゃないんだから。
信じすぎるのもよくないよ」
「三ツ葉、あの」
「見極めって言うの? いい人も悪い人もいるから、気を付けなね」
「違うよ、三ツ葉」
「違わないよ。実際震災後は犯罪が増えるんだ。
空き巣、事務所荒らし、性犯罪。
非日常と異常がごっちゃになって、見過ごされることだってあったんだし、
依利江は――」
「そうじゃないんだってば!」
遮ると三ツ葉と目が合った。
彼女のペンが足下に落ちた。
「三ツ葉、言ったよね?
ホテル観洋でさ、思ったことを口にしていいのか訊いたら、そうしてみろって言ってくれたよね?」
ああ、あんなふうに三ツ葉の話を遮らなくてもよかった。
「そんな指示めいたこと、言ってないよ。
『いいんじゃない?』って、依利江に任せるよって、そう言ったんだ」
「おんなじだよ!」
なんでわたし、観洋のこと引っ張り出してるんだろう。
「ニュアンスがまったく違うでしょ」
「違わないよ」
あの直後、『依利江のそういうとこ、好きだしさ』って言ってくれたのが嬉しかったのだ。
わたしのことをちゃんと見てくれてるんだって。
「なら『見たいように見ればいい』って言ってくれたのは?
わたしのこと、責めないって、そう言ってくれたよね?」
「言ったよ。今だって責めてないじゃないか。
ニュアンスがずれて、勘違いしてたら困るから」
「勘違い? 勘違いって、なに?
わたしの感覚とデータが食い違ってるって意味?」
「それは」
三ツ葉の言葉が濁った。
「そんなの、とっくにわかってるよ!
わたしの感覚はおかしいよ! 誰にも理解不能だよ!
みんなわかってくれないもん! 嫌われたことだってあったよ!
それが、こ、怖くて……だから自分の思ってること、言わないようにして。
言いたいこと、たくさんあるのに、いつの間にか伝える言葉を忘れちゃって……」
なに言ってんだろ、わたし。
三ツ葉の知らない過去話を持ちだしたところで、意味わかんないだけなのに。
あの出来事があったからわたしはコミュ障になりましただなんて、そんなの言い訳にしかならない。
ああでも、こんなに睨まれてる。
三ツ葉があんな目するの、初めてだ。
怖い。
三ツ葉が怖いんじゃなくて、この状態から脱しようとするわたしが怖い。
後先考えずに防波堤向かって走ればいいのに。
そうするんじゃなくて、本心をぶつけたくて仕方がないのだ。
〈彼女〉と同じことをして、関係をぶち壊そうとしてる自分が、こわい。
思考回路上で逃亡しているこの間、三ツ葉は視線を逸らすことなくわたしを見つめていた。
「み、三ツ葉、だって……」
嫌われるんだろうな。
心のなかで吐息を洩らした。
思い出が巡っていく。
走馬灯だ。
些細なことでケンカし、絶交。
そしたらさすがに立ち直れる気がしない。
わたしにはそんな体力、もうない。
ならばわたしが耐えて、このままの関係でいればいい。
それだけのことなのに。
決壊させたくなかった。
なにを決壊させたくないの?
自分なのか関係なのか。
もうわからないのだ。
ただ伝えたい。
だって。
「三ツ葉だって、自分のこと、話してほしいよ」
三ツ葉はかけがえないから。
結局わたしは、三ツ葉を知らない。
身長が高くて、背中のラインがきれいなのとか、
朝に弱いこととかは知ってるけど、そういうのは見てればわかることだ。
そういうのじゃなくて。
「わたしたち、いろんなの見てきたよね。津波の傷跡も、三陸の青い海も」
わたしたちは旅をしている。
同じ景色をたくさん見てきた。
別々に行動したこともあったけど、合流したらすぐ共有できた。
「そういうの、見たらさ」
頬を伝う熱を感じた。
雫はつま先のアスファルトを黒く染めた。
「怖いねとか、きれいだねとか、言ってほしいよ。知識ばっか、話さないでよ」
「依利江……」
視界がぼけて、にじんでいく。
三ツ葉と風景がとろけていく。
曖昧な三ツ葉の輪郭は、はにかんでいた。
帽子から飛び出た髪を掻いて、こころもち深くかぶり直している。
その姿が、意外だった。
「え、と」
自信なさげな三ツ葉の声を聞くのは初めてだった。
なんだがちょっとおかしくて、それに珍しくもあった。
こんな貴重な姿なのに瞳が潤んでしまって、焼きつけられない。
知らない三ツ葉だ。
知らない三ツ葉だけど、居心地のいい、三ツ葉だ。
「わたし、三ツ葉からいろんなこと教わるの、好きだよ」
まなじりを拭って伝えた。
「でね、三ツ葉の感じたことを聞くのは、もっと好きって、ずっと言いたくて」
「……そっか」
しばらくして三ツ葉は頷いた。
「そうなのかもしれない」




