あの人のこと
「ねえ、次の合わせのときさ、口パクにしよ、ね?」
あの人はああいうふうに笑うんだった。
もう忘れたことすら忘れていたはずなのに、なんで今になって思い出すんだろう。
今日はたくさん考えごとをしたから、頭が思い出を整理してるのかもしれない。
あの人。
わたしに写真の楽しさを教えてくれた、中学時代の親友だ。
もう会うことはないだろう、一方的な親友。
わたしたちは音楽室の壇上にいた。
横三列に並んで、指揮者の後ろに座る先生の小言を聞いていた。
合唱祭の練習だから、なにかを歌ってたはずだけど、なんだったっけ。
ついさっき先生に止められるまで、一生懸命歌ってたのに。
〈旅立ちの日に〉だった気もするし、〈時の旅人〉だったような気もする。
〈旅立ちの日に〉を歌ったのは卒業式だった。
式を成功させよう、そうみんなに演説した男の子がいて、
自分も頑張りたいって思ったんだっけ。
だから、後者だ。
……いや、〈時の旅人〉はそもそも歌ってない。
違うクラスの合唱を体育館で眺めてる映像が浮かぶ。
木の床でひんやりお尻が冷えてくのを感じながら、
上手なハーモニーと語りかけるような歌詞に憧れを抱いた。
ふたつの曲は心に残ったから記憶にあるんだ。
だから、今わたしの歌ってる曲がなにかなんて、意味のないことなんだ。
大事なのはあの人との思い出だ。
忘れようとしても、深く刻まれてしまったものから逃れることはできない。
「どうして歌っちゃダメなの?」
口パクしよう、その誘いにわたしは小声で理由を尋ねた。
先生はわざわざ曲を中断させて、気に入らない点を諸々並べている。
そんなときにわたしたちの会話を悟られては大変だ。
正面の子の頭を見つめ、なるべく唇を動かさないようにして会話を続ける。
「だって、面倒じゃん。
こっちは言われた通り歌ってんのにさ、すぐ怒るし、さっきと言ってること違うし。
いっそ歌わなきゃよくね?」
あの人は、ああいう人だった。
そのあとわたしはなにをしたんだっけ。
布団にくるまりながら、考える。
目が覚めていた。
民宿にいて、天井を見上げていた。
音楽室での光景は夢だったのかもしれない。
でも現実にあったような気もする。
混濁した意識では判別がつかない。
あの人は情熱的に歌うんだ。
二人でカラオケに行ったから、知ってる。
あの人が歌い終えたあとのマイクは、感情が脈打つように温かかった。
でも、たまにサビの段階で突然演奏中止ボタンを押すことがあった。
もっと聴いてたかったのに、尋ねてみると一言「気に入らない」だった。
あの人は歌が好きだった。
歌は心の叫びで、本人だけのものだった。
人と合わすのなんてできない人だった。
そして歌より、褒められるのが大好きな子だった。
褒めたくなるものをたくさん持っていた。
頭の回転が速くて、意見をすらすら言えて、意志が強くて……。
当時のわたしが人に自慢できるものは、大切な親友を持てたことだった。
わたしたちの関係は、普通の友達とは違った。
あの人と遊ぶときはいつも二人っきりだった。
わたしがあの人のことを特別だと思うように、
あの人も私のことを特別だって見てくれてたんだと思う。
今思うと、音楽室での一件はあまりに些細すぎる抵抗だった。
ただ、あの人だったらそんな些細なことでも明確な意志を抱いてやるだろうし、
わたしもそんな姿が格好よく思えて、誘いに乗ると思う。
中学のころ、わたしはなにを歌ってたんだろう。
そんなことを思いながら戸の隙間から洩れる陽の光を眺めていた。
三ツ葉は寝ていた。
喉が渇いていた。
布団をめくり、新しいお茶を一杯淹れた。




