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イリエの情景~被災地さんぽめぐり~  作者: 今田ずんばあらず
気仙沼市篇
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学芸員のお仕事

「アックアアルタ? いえ」

「この写真とか、私は好きですね」


 学芸員が見せたのは、本屋の写真だった。

 長靴を履いた中年の男性が揺り椅子に座り、本に囲まれて笑顔を見せている。


 わたしの目には異常に映った。

 男性は本屋にいるはずなのに、その床は水に浸かっているのであった。


「これ、どうしちゃったんですか?」

「これが高潮(アックアアルタ)、ヴェネツィアの風物詩です。

 年に数回、水の都は高潮によって水没するんです」



 水没。


 防災庁舎の鉄骨が浮かぶ。

 そのあとで、太平洋の島国を思った。

 ミクロネシア、だっけ。


 写真をもう一度見る。

 俺を見てくれと言わんばかりに、男性はちょっぴりおどけた様子で白い歯を見せていた。


「地球温暖化ですか?」


「その影響もありますが、アックアアルタは千年以上前からある現象です。

 道路が水浸しになるくらいのだったら年に何十回もありますし」


「不便じゃありませんか?」


「不便、我われの感覚じゃそうかもしれない。

 実際、橋の下を船が通れないから、交通はストップしちゃうし、商売もね。

 でも、ヴェネツィアの人はどうだろう」


 隣の写真を見ると、雑談をしてる二人の女性がいた。

 サン・マルコ広場で、しかもわざわざ椅子を持ち出して。


 ライトアップされた建物が水面で揺らめいている。

 その様子は穏やかで、情緒的ですらある。


 嬢ちゃんどうだい、これがヴェネツィアさ。


 そんな視線がちらりと刺さった。


「アックアアルタの日は仕事をしないで、ゆっくりする日になるんです。

 自然現象が日常に溶け込んでいて、市民は変わらぬ生活を送っている。

 むしろ楽しんでさえいる。


 水が入っても、あとで床を拭けばいい」


 時間の流れが違って感じた。

 イタリアもこれを高潮災害と見て、防潮堤の建設をしているらしい。


 〈モーゼ計画〉といわれるもので、名前からして壮大だ。

 ただ、当のヴェネツィア市民の多くはこの計画に反対しているらしい。



「これ、イタリアに限った話じゃないんです。

 たとえば日本でも雪が降るところと降らないところがありますよね。

 東京で10センチ降れば大混乱になりますが、

 新潟の豪雪地帯で1メートル降っても、それが冬のある一日でしかない。


 東北や北海道に台風が上陸したらどうなるか思い知らされましたが、

 沖縄に十数回接近したとしても大きな被害にはならない。

 なぜか。

 自然現象と何百年何千年という歳月を共にしてきたからです」


 ヴェネツィアも千年以上アックアアルタと共に暮らしてきたんです、と学芸員は言った。


 ゲルマン人に追われたローマ人がヴェネツィアを造ったらしい。

 彼らは沼地に杭を打ち、人工の島を造り、干潟でとれる魚や塩を資源に発展を続けた。

 共和国になったのは697年のことだ。


 彼らにとっての干潟は砦であり、糧だった。

 干潟がなくなれば敵の侵入を許し、糧も失われることを知っていたし、

 海が汚れたら疫病が流行り、生活を失うことも理解していた。


「我われが環境問題を語ると、大体二者択一になりますよね。

 環境か、経済か。

 環境というのは、文化に置き換えてもいいでしょう。


 文化とは日々の暮らしやその風景のことです。

 しかしヴェネツィア市民にとって、文化の保全こそが経済の基盤なんです。

 文化か経済かという二択問題はありえません。

 では、このまちは?」


「つなみ」


 実際に声には出せなかった。ただ唇だけが三文字を唱えた。


「ここは津波常襲地帯です。

 この地で暮らすということは、その事実と向き合っていくということです」


 三ツ葉は気仙沼漁港を「まちの誇り」と呼んでいた。

 カツオとかサンマとか、このまちで揚げられた魚が全国に届けられる。


 つまりこの方は津波を〈自然現象〉と捉え、

 〈風物詩〉のごとき付き合いをしていくと、そう言いたいのだろうか。


 それはあまりにも無茶で……。

 いや、でも……。


「できるんでしょうか」


 その問いに、学芸員は意地悪な笑みを洩らした。


「残念ながらその選択肢は持ち合わせていません。

 あるのはただ〈やるかやらないか〉、それだけです。


 ヴェネツィアはやりました。

 やり続けました。


 水際で生きる我われは、未来永劫水際での生活、正しい生き方を考え続け、

 追求しなくてはいけません。

 考え続け、やり続けたものが文化になるんです」


 その眼には、落ち着き払った一元的な闘志を湛えていた。

 わたしはこの眼をどこかで見たことがあったような気がした。


 一千年語り継ぐ、あの男性の眼だ。

 海と暮らす人間の眼だ。


 彼の話は一元的であったけど、柔軟さを持ち合わせていた。

 向けられたものが神ではなく、自然に向けられているからなのかもしれない。


 津波と共に暮らすなんて、闘志を知らない人が見たら絶対滑稽なものに見えるだろうし、

 不謹慎と責められたって当然だと思う。



「どうしてそこまで……」

「文化を守ることが学芸員の仕事ですから」


 ここはリアスアーク美術館。


 これが芸術なのか。

 こんなほとばしるエネルギーを凝縮させた施設を、わたしは知らない。



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