日焼け止め講義
3日目 24日(水)気仙沼市2日目
「信じらんない。依利江、信じらんない!」
あの三ツ葉が、朝にめっぽう弱い三ツ葉が、叫ぶ。
〈とと姉ちゃん〉を観終え、着替え中のことだった。
こちらからすれば、うつらうつら朝ごはんの納豆を胸元に落としてた子が、
下着姿のまま悲鳴をあげてることのほうが信じられなかった。
「日焼け止め……こんなの使ってんの?」
「こんなのとは失礼だなあ。大昔からこれ使ってるの!」
「大昔って、これベビー用だよ?」
「だからベビーのときから使ってたってこと」
「依利江、肌弱いわけじゃないよね?」
わたしのすっ呆けはスルーされる。
「普通くらいだと思うけど?」
「そしたらSPF50+でPA++++じゃないと。
赤ちゃん用は弱いんだから。紫外線に負けるよ」
「えす、えすぴー……?」
「無頓着だなあ」
まるでお母さんみたいなため息を洩らし、三ツ葉はバッグから日焼け止めを取り出した。
「今日だけ貸すから、買って」
日焼け止めをカチャカチャと小気味いい音を鳴らして振って、フタを開ける。
腕を掴まれ、そこに乳白色の液体を塗りたくられる。
「どんなの買うか、わかる? わからないよね」
「まあ」
「SPFの数値が一番高くて、PAの+も多いの。
ウォータープルーフって書いてあるやつのほうが、汗かいても流れにくいから、オススメ」
そのSPFとかPAってのが謎記号なんだけど、ここで質問したら怒られそうな気がした。
きっと物理防御力と魔法防御力だと、ここでは勝手に解釈しておく。
「ドラッグストアに行けばあるだろうから、必ず、いい? 必ず買うこと!」
「はいはい」
「はいは1回」
「はーい」
「洗濯はこっちでするから、出かける準備できたら先行っていいよ」
三ツ葉はデニムのショートパンツを穿いた。わたしも仕度を進めた。
9時過ぎ、桐の間を先に出た。
今日はひとり旅だ。
もしかすると人生で初の経験かもしれない。
ただし問題はある。
リアスアーク美術館までの行程は決まってない。
駅から旅館までの道中バス停はあったけど、それが何時にどこへ行くのかは不明だ。
あとドラッグストアが周辺にあるのかどうかという問題もある。
少なくとも道中にチェーンストアと呼ばれる店はセブンイレブンただそれだけだった。
日焼け止めがあればいいけど。
帽子をかぶり、高校時代からの付き合いになるポーチを提げて階段を降りる。
大バッグがない分、今日は身軽だ。
美術館までの道のりを踏破できる自信はないけども。
「お出かけですか?」
玄関の前に女将がいた。
花柄のモンペを穿き、柄杓と桶を持っている。
打ち水をしてたみたいだった。
「はい、リアスアーク美術館へ」
「へえ、そうですか。お気をつけて」
女将さんだったら。ふと妙案を思いついた。
気仙沼の地理に詳しいかもしれない。
「あの、行き方って知ってますか?」
至極当然な問いだと思う。
だって女将さんなんだ。
この旅館に嫁いでずっとこのまちで暮らしているんだから。
「へ?」
目の前の女将が、一瞬普通のお婆ちゃんみたいに映った。
「ごめんなさい。外のことは詳しくなくて……」
女将なのに。
刹那的に裏切りを感じて、そして裏切られたと感じてしまった自分に傷付く。
わたしやさしすぎる、それは自覚してる。
「若旦那がいればよかったんですが、今朝はお勤めで商工会所へ行ってしまって。
ごめんなさい。役立たずで」
「そんなことありませんよ」
とっさに出た言葉だった。
役立たず。
女将の謙遜が強烈な自虐に聞こえてしまったからだった。




