あの女神
ちらっとしおりを読み返す。
電車はあと一時間半後だった。
展望喫茶でゆっくりしすぎたかもしれない。
外に出る。
若干の曇り空でじめじめとしていた。
雲に反響しているのか、遠くから工事の音が聞こえる。
石巻市は、比較的早く復興が進んでいるらしい、と聞く。
市街地の応急処置は済み、クレーンやショベルカーは郊外で活動している。
ただ、市街は治ったというより処置したと言ったほうが近いかもしれない。
なんとなく普通を装っているけれど、違和感がつきまとって離れないし、
住む人たちの心が哀しみを帯びていることに間違いはなかった。
ブルーゾーンの展望席で耳にした震災の会話は、まさにその哀しみのあらわれだと思う。
中州をすこし歩くと、中が空洞になっている建物があった。
二階部の外壁に〈マリーナ中瀬〉とある。
壊れかけのボートが一階の隅に置かれていた。
「依利江、ちょっと来てみて」
三ツ葉は建物の裏手側にいた。
砂利の隙間からネコジャラシやブタクサのようなものが生えている。
三ツ葉はカメラを構え、しゃがみこんで川辺にレンズを向けていた。
川は淀んでいて、川下から川上へさざ波が立っていた。
満ち潮で水が逆流しているらしい。モーターボートが川の中程に浮かんで上下に揺れている。
下流のごく普通の光景なのだけど、なんだか妙な心地がした。
その妙な心地の原因を説明できないうちに、三ツ葉が立ち上がった。
「ここまで水が来てるんだ」
三ツ葉の足下を見る。
雑草の根本に砂利はなかった。
ぬかるんだ真黒い砂にあぶくがひっついていた。
三ツ葉は半ば埋もれたコンクリートブロック片の上に立ってこちらを向いていた。
そこから背中側はもう水辺だった。
入りかけのコカコーラやお茶のペットボトルが散乱していたり、
黒カビの生えた木片が刺さっていたり、腐りかけの茎が浮いていたりする。
さらにその奥の水面から太い木の枝や錆びきった鉄骨が突き出ている。
モーターボートはさらにその向こうにある。
よく見ると船の側面に浮きとタイヤで作られた桟橋があった。
でもそれは岸から離れた孤島みたいにぷかぷかと水に囲まれていた。
「地盤沈下の影響だろうね」
三ツ葉がボートを見つめて言った。
「場所によっては一メートル以上下がったところもあったみたいだよ。
繋留所なんてずいぶん被害があったんじゃないかな」
マンガロードの橋で感じた川面の近さを思い出した。
あれは心理的なものでもなんでもなく、単純に石巻全土が沈んでいたからだった。
「なんか、変な感じ。普通じゃないのが、普通になってるっていうか」
「たくさん出会うと思うよ」
わたしは頷いた。
……この震災がとんでもなかったのは重々承知してるけど、
それでもやっぱり、とんでもなかったんだ。人類の言語じゃ表現しきれない。
道路に戻って下流方面に行く。
すこし行くとけもの道があった。
ネコジャラシがそこだけよけて生えていて、砂利が露わになっている。
途中に移動販売車とタープテント……
運動会やお祭のとき見かける、天幕のみ張るタイプのテントがあった。
移動販売車は原色のペンキをぶちまけたような奇抜なデザインをしていて、
いい香りを漂わせている。
どうやらドーナツを売っているらしい。
お客さんと店員が親しげに話していた。
その横のかすかに砂をかぶったタープテントは無人で、テーブルにかき氷機が置いてあった。
なぜかFMラジオが流れていて、パーソナリティーがハガキを読んでいた。
けもの道の先は駐車場になっている。
石ノ森萬画館や公園の駐車場になっているみたいだった。
そして、その真ん中に緑色をした巨大な台がある。
その上に背を向けて――つまり海を向いて――立っているのが、噂の自由の女神像だった。
自由の女神は、不思議な姿をしていた。
モーターボートと違って、その違和感の正体は一目瞭然だった。
片足がない。
この女神は左足を失ってもなお右手の松明を掲げ、地平を見つめていた。




