流星に願う
「マンガ家? な、ならないよ!」
わたしは全力で否定した。
「だったら、作家希望?」
「そんなんムリムリ。将来のことなんてとくに決まってないし」
「あそう。なんか、喰い入るように見てるから」
「それは創作学科だから、学科病みたいなもんだよ」
学科病なんて語があるとは思えないけど。
まあ職業病のようなものだ。
文脈関係なく〈市場〉を〈しじょう〉と読んじゃう経済学部生みたいな。
わたしたちの学科は文字通り創作をする学科だ。
だから創作物を見ると蜜に誘われたカナブンみたいに吸い寄せられてしまうのだ。
「心理描写、時間経過、ストーリーの緊張感にいたるまで……
先生の手にかかれば全部コマ割と風景で描写が可能なのって、すごくない?」
セリフに頼らない手法が、学科的、学部的視点から見て新鮮に映った。
創作学科には自分の作品を発表するカリキュラムがある。
進行上形式は小説と詩のみで、マンガや音楽、演劇、映像作品等は不可となっている。
創作の講義以外でも、文芸学部という学部自体が、
言葉(特に文章)主体の学部で、他の形式の授業はほとんど行われない。
無論ないわけではないけど、それも〈言葉〉に重きを置いていることに変わりはない。
だから自然な成り行きなんだけど、絵とか音楽とか写真とか、言葉以外の表現は軽く見られがちなところがある。
世の中には言葉以外のもので溢れているし、その言葉以外のものが言葉に一層の深さをもたらしている。
ファイナルファンタジー6でファルコン号が飛び立つシーンとか、
ドラクエ3のエンディングの出だしとか……
懐かしいゲームに偏ってるのは知見が狭いからだけど、言葉じゃあらわせない、
言葉の引用では伝えきれない良さもある。
また同時に、先生の描写力を文章にまとめられたり、
文学の文法になぞらえて書くことができれば、それはそれで魅力的な筆さばきになるんじゃないかとも思った。
ムリなクセにそんなふうなことをぼんやり考えちゃうところ、
自分も創作学科に染まってきたんだなと思う。
「写真家志望としても、勉強になるよ。撮影禁止なのが惜しいくらいだ」
と三ツ葉は冗談まじりに言った。
「依利江の作品にも活用できたらいいね」
「わたしの?」
先生の作品をもう一度見つめた。
わたしの作品に活かす。
なんというか、自信がない。
先生の表現力は純粋にすごいなと思うけど、
その手法を活かして創作活動する自分の姿がまったく想像できない。
そもそも大学に入って、講義で初めて小説を書いたのだ。
散々な出来だったし、総評としては「差し当たりのない作品」というなんとも言い難いものだった。
締切があと一週間長かったら
「ここんとこ面白かったよ」って感想がもらえるくらいの出来にはなったんじゃないか。
今読み直したら書き加えたいところ、書き直したいところ、たくさん見つかると思う。
直せど直せどボロが見つかって、延々ゴールに辿り着かない。
そんなことわかってるし、したところで誰にも追いつけないのは明白だけど。
うちの学科には、とにかく魅力的な作品を書く子がたくさんいる。
小学校のときから書いてる子もいるし、
平沢進の詩のなかを泳いでるようなお話を書く子もいる。
中高生向けの高いテンションを維持したまま
哲学チックな問いかけを軽い文体で書ききってしまう子もいる。
意味深長でミステリアスなストーリーが、最後の台詞だけで一気に集束し、
点という点が繋がり、ボッとビックバンを起こさせるセンスを持つ子もいる。
綿密な取材に基づいた鮮やかな風景描写と風土の香りを描く子もいる。
これは三ツ葉だ。
わたしなんか、足元にも及ばない。
言葉ってものに頼りきりなのはわたしだ。
確実なものに執着しちゃってる。
言葉以外のものに頼ろうとしても不安に負けてしまう。
いや、言葉だって同じか。
口から出た言葉が、耳に入ってくる言葉が、心の底からの言葉なのか……ずっとずっと疑ってる。
世界は才能で溢れてる。
それを抱く人たちはみんな自信があって、信頼を持っていて、どんどん膨らんでいく。
だから魅力のないわたしなんてどんどんしぼんでく、どんどんちっこくなっていく……。
――ジョー! きみはどこにおちたい?
流星になる009に向かって、わたしはなにを祈ればいいのだろう。