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試合前の整列が行われ、きちんと挨拶をした上で、これから対戦する私立の商業高校の選手たちが守備位置につく。今日の試合では、私立群雲学園が先行だった。スタメンを外れたのは伊藤和明で、彼は控え投手としてベンチで待機する。代わりに淳吾がスターティングメンバーに名を連ねているのだから、いやが上にも緊張は高まる。
対戦校の投手がマウンド上でピッチング練習をする。練習前のロッカーで行われたミーティングによって、大体の特徴が土原玲二から説明された。オーソドックスなサウスポーで、球速は130キロを超える本格派。変化球もスライダーやカーブを持っている。得意玉はストレートのようで、特に右打者へ対しては、勝負所でインサイドへ投げてくるケースが多いらしかった。
とはいえ、実際に見たことはなく、あくまでも部員の父兄が善意で用意してくれたビデオ映像のデータだという。どうして練習を偵察するなりしなかったんだとは、誰も言わない。初心者ばかりで形成されている私立群雲学園野球部に、次の対戦相手を気にしてる余裕などなかった。
とにかく打席へ立たなければ何も始まらない。まずはトップバッターの田辺誠が右打席へ入る。すると、私立群雲学園の応援席の方から、威勢のいいメロディが流れてきた。何かと思ってベンチを乗り出して確認をする。そこには様々な楽器を持った制服姿の男女が、並んで座っていた。
「……あれはウチの高校の吹奏楽部か? わざわざ応援に来てくれたのか……」
淳吾と一緒に観客席の様子を見ていた相沢武が呟くと、当たり前のように栗本加奈子が胸を張った。
「感謝してよね。昨日、先生たちに頼んでおいたんだから」
「……お前が?」相沢武が目を丸くする。
「そうよ。しっかりした応援があれば、皆のやる気も倍増するでしょ」
誰もすぐにその言葉へ呼応せず、全員がただただ栗本加奈子を見ている。
「な、何よ、その顔は。も、もしかして……迷惑だった?」
皆の反応が予想外だったらしく、吹奏楽部に応援を頼んだ栗本加奈子が戸惑いの表情を見せる。そんな彼女へ、普段からよく口喧嘩をしている相沢武が声をかける。
「いや……ありがとうな」
珍しくお礼を言われた栗本加奈子は最初にぎょっとした表情を浮かべたが、すぐに誰より得意そうにフフンと笑った。
「アタシの偉大さがようやく相沢にもわかったようね。何なら、もっとお礼を言ってもいいのよ」
「おい、誰かこいつをベンチから追い出してくれ」
「はあ!? 有能マネージャーのアタシを追い出したら、誰がこの試合を勝利に導くと思ってんの!?」
「試合に出てる選手だよ。お前ひとりでどうにかできるわけねえだろ」
「何よ、その言い方! もう頭きた! 相沢こそベンチから出ていきなさいよ!」
「……先発投手が1球も投げずに交代できるわけねえだろ……」
呆れ果てた感じの相沢武に、なおも栗本加奈子はあれこれ言っているが、当事者以外はあまり気にしなくなっていた。あの2人にとっては、これが通常運転なのだ。おかげで多少なりとも緊張が和らいだので、心の中でこっそりと感謝する。そんな淳吾に控え投手となった伊藤和明が近づいてきたかと思ったら、何やら楽しそうに声をかけてくる。
「栗本さんも、なんやかんやで一生懸命マネージャーをしてくれてるよね」
普段から熱心に練習へ参加してるわけではないので、素直に頷けないところはあるが、淳吾の目から見ても栗本加奈子はきちんと野球部のマネージャーをしているように見えた。
安産祈願ではあったものの全員分のお守りを取りに行ったり、知らない間に吹奏楽部へ応援の依頼をしていたりもした。試合へは出場していなくても、チームのために何かしたいという気持ちは十分すぎるほど伝わってくる。
「夫婦喧嘩はその程度にしておいて、まずは1番の田辺を応援するぞ」
そう言って土原玲二は、夫婦じゃないと揃って反論する相沢武と栗本加奈子を尻目にベンチからグラウンドを見守る。今まさに、相手投手が打席に立っている田辺誠へ初球を投じようとしていた。
「見ろよ。吹奏楽部の応援があるせいか、田辺の気合はいつも以上に入ってるみたいだぞ」
土原玲二の台詞でより得意げになるかと思いきや、吹奏楽部の応援を実現させた栗本加奈子は何故か複雑そうな表情をする。
「それって……マズいよね……」
「どうして?」不思議そうに伊藤和明が尋ねる。
「だって、普段から恰好つけたがる田辺っちが、吹奏楽部の女の子たちにいいところを見せようと考えてたら……」
全員が栗本加奈子の言いたいことに気づいて「あっ」と声を上げる。視線を田辺誠へ戻すと、彼は見事な大振りで豪快にワンストライクを取られていた。
「ボールをよく見ろ! 今のは高めに外れてたぞ!」
ベンチの中で叫ぶ土原玲二の隣で、マネージャーの栗本加奈子が「悪い予感的中ね」と項垂れる。
「この間の試合で、大振りはしなくなったと思ってたのに……」
「良くも悪くも、人間の性格はそう変わらないってことだ」
落ち込む栗本加奈子に、土原玲二が何の慰めにもなってない台詞を送る。そうこうしてるうちに、田辺誠はツーストライクまで簡単に追い込まれてしまった。これでワンナウトか。誰もがそう覚悟した3球目。思いもよらない光景が展開された。
なんと田辺誠がスリーバント失敗でアウトになる可能性があるにもかかわらず、セーフティバントを決行したのだ。2球目までの大振りを見ていた1塁手も3塁手も、守備位置をベースよりやや後ろにしていた。セーフティバントは頭になかったらしく、最初の一歩目も遅れる。
勢いが殺された打球が、3塁線の内側を力なく転がる。慌てる3塁手がボールをグラブへ収めた頃には、俊足の田辺誠はファーストベース付近にまで到達していた。
大急ぎでファーストへ送球されるが、1塁手のミットへボールが到着するより先に、田辺誠がファーストベースを駆け抜けた。1塁審判の両手が左右に広がり、セーフのコールが球場に響く。チームメイトすら意表を突かれた目立ちたがりのセーフティバントによって、私立群雲学園は初回からノーアウト1塁のチャンスを得た。
「お、驚いた……」
3番の相沢武がバットを持って準備する隣で、栗本加奈子が呆然と呟いた。彼女もまた、田辺誠が大振りでの三振を喫すると思っていたのだろう。淳吾も驚きを隠せないでいる中、主将の土原玲二が両手を叩いてチームメイトを鼓舞する。
「ノーアウト、ランナー1塁だ。しっかりと攻めるぞ」
ベンチの中で監督をしている顧問に合図を出す。それを見た先生がたどたどしくサインを出し、打席へ入ったばかりの港達也に作戦を伝達する。主将としてチームをまとめながら、監督みたいなこともしなければならない土原玲二は本当に大変そうだ。なのに楽しそうな感じしか伝わってこないのだから、本当に野球が好きなのだろう。
初回の攻撃でいきなり動きがありそうな展開を迎え、吹奏楽部を中心とした私立群雲学園の応援団も大盛り上がりだった。セーフティバントを決めた田辺誠にも大きな声援が送られており、1塁ベース上でまんざらでもない表情を浮かべている。
「うわ、田辺っち。なんかすっごい嬉しそうなんだけど」
「いいことじゃないか。ホームランを打たなくても、足があれば歓声を受けられると理解してくれれば、田辺のプレーにも変化が出てくるかもしれないからな」
栗本加奈子の呟きに、戦況を見守りながら土原玲二が応じる。他の部員も声援を送る中、グラウンドでは2番の港達也が堅実に送りバントを決めてくれた。
ワンナウト、ランナー2塁で迎えるバッターは3番の相沢武。半分以上の部員が初心者の私立群雲学園野球部において、打点を期待できる数少ないポイントゲッターだ。ネクストバッターズサークルでしゃがみながら、見守っている淳吾は心の底から、打ってくれと祈った。
仮に相沢武が凡打したりすれば、ツーアウトというプレッシャーがかかりまくる状況で打席が回ってくる。チームメイトはおろか、吹奏楽部を含む応援団からも安打を期待される。淳吾は前の試合で、サヨナラホームランを放っているのだ。
学園内での過大すぎる評価もあるだけに、不安と緊張ばかりが大きくなる。わずかでも緩和してもらうためには、相沢武にタイムリーヒットなり、ツーランホームランなりを打ってもらうしかない。
左投げの投手と対戦するのは初めての経験になるが、変則的なフォームを使う選手ではなかった。だからといって安心はできない。心の中で相沢武に頼むぞとエールを送り続ける。無事に届いていたのかどうかはわからないが、相沢武は相手のカーブにタイミングを外されながらも、なんとかバットにボールを当てた。
12塁間を抜けるかと思ったが、2塁手がなんとか追いつく。守備のレベルは間違いなく私立群雲学園より上だ。きっちりと捕球されたボールがファーストへ送られる。その隙に、2塁ランナーだった田辺誠は3塁まで到達した。
最初から相沢武はヒットを狙うより、最悪でも3塁へ走者を進めるチームバッティングをしようと決めていたみたいだった。凡打に終わって悔しそうにしながらも、淳吾の側を通り過ぎる時に、小さな声で「頼むぞ」という言葉を残していく。
ここで打てれば評価はさらに上がるものの、凡打をすればチームメイトや応援団にため息をつかれる。そんなのはごめんだった。
打席に入り、相手投手と対峙する。打たせてなるものかという気迫を放つのは、どのピッチャーでも同じだった。負けないように腹へ力を込め、打席内の土をスパイクでぐっと踏みしめる。左投手のボールの軌道がわからないので不安はあるが、悠長に球筋を見てる余裕はない。これだと思った球が来たら、初球から振るつもりだった。
淳吾のサヨナラホームランを知っていれば、多少は警戒してくれるはず。初球から甘いストレートが来るとは考えにくい。とはいえこの場面では、ボールを先行させたくない。淳吾ならどうするか。
ストライクかボールかわからないコースへ投げ、打者の様子を見ると同時に、ストライクを取れたらラッキーと考える。予想が合ってるかどうかはともかく、狙い球は決まった。ストレートだ。
あとはコースの問題になるが、前の試合で淳吾は低めよりのストレートをホームランにしている。となれば高めか。しかし、好きなコースの近くに苦手なポイントがあると考える可能性もある。ボール気味の低めも捨てきれない。
どうすればいいか悩んだ末に、淳吾は低めを選択する。自分のアッパー気味のスイングでは、高めをジャストミートするのは難しい。決して不可能ではないが、初対戦の投手が相手ではうまく処理できないと判断した。
バットを持つ両手に力を込めてから、今度は反対に力を抜く。肉体をリラックス状態へ移行させながら、相手投手のフォームに合わせて左足を上げる。カーブを投げられたら、タイミングを合わせられずに空振りするのはわかりきっている。スライダーでも同じだ。頼むから真っ直ぐを投げてくれと祈りつつ、上げていた左足を全力で下ろす。




