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発生したばかりの甲高い金属音が、今も耳に残っている。何度も通ったバッティングセンターでも聞いたことのない、爽快感溢れる音だった。心地よい痺れが両手に残り、打ったという実感を与えてくれる。振り終えたバットはいまだに振動してるみたいだ。
視界に映る白い点が小さくなっていくにつれ、周囲が騒がしくなる。誰もがまさかと思いながら、淳吾が放った打球を見つめる。私立群雲学園のベンチで、誰かが「行った!」と叫んだ時には、打球はずいぶんとその姿を遠くまで移動させていた。
――ドスン。そんな音が聞こえてきそうなくらいの派手さを伴って、突き刺さるように白球が地面へ落ちる。グラウンドと観客席を仕切っているフェンスの向こう側へ。
途中、そのままスタンドまで届いてくれなんて祈りもせず、淳吾は呆然と打球を見つめていた。何かを願ったりする余裕すらなかったのだ。今もまだ、呆然としている。周囲の狂乱ぶりだけが、この試合で何が起きたのかを教えてくれる。3塁側に立っている塁審が、頭の上で片手を大きく回す。淳吾の打球がスタンドを越えた証だった。
とりあえずバットを打席近くへ置いてから、淳吾はゆっくりと1塁へ走り出す。頭上からはひっきりなしに歓声が降り注いでくる。これは本当に現実なのかと眉をひそめたくなる。何故なら淳吾は初心者も同然で、劇的な本塁打を打てるようなバッターではない。もしかしたら夢を見ているのかもしれないと不安になり、周囲を注意深く観察した。
忙しなく移動させていた視線が、途中でピタリと停止する。そこはマウンドだった。対戦高校の投手が、いつの間にか膝をついて地面を叩いていた。チームメイトに肩を叩かれ、なんとか顔を上げる。見ている淳吾の胸が痛くなるくらいに、相手投手は号泣していた。嗚咽を漏らし、何度もチームメイトへ謝罪をする。
一方、私立群雲学園のベンチはお祭り騒ぎだった。誰もが抱き合って歓喜の雄叫びを上げる。淳吾がベースを一周するのを、満面の笑みを浮かべて待っている。これが勝者と敗者の差なのかと思えば、とても切ない気持ちになる。だけど、それも少しの間だけだった。
本塁打を打った実感が出てくると、徐々に嬉しさがこみあげてくる。実力は相手投手より下だったかもしれない。それでも淳吾はなんとか結果を残せた。夜のバッティングセンター通いも、早朝の練習も決して無駄ではなかった。小笠原大吾や源さんに感謝しながら、2塁ベースを慎重に踏んで3塁を目指す。
そういえば彼女はどうしてるだろうと、私立群雲学園を応援してる側の観客席を見る。そこでは両手を組んだまま立ち上がり、淳吾をじっと見つめている女性がいた。土原玲菜だ。両目から涙を流し、何かを言いたげな表情をしている。ふと目が合うと、彼女はかすかに微笑んだような気がした。
「淳吾君、恰好いいわよっ!」
せっかくの雰囲気を台無しにしかねない声が飛んでくる。賞賛されるのはありがたかったが、隣の男に抱きつかれようとされるのを防ぎながらでは、どうしても素直に感謝できない。仕方がないなと苦笑していたら、今度は小笠原茜に悪戯しようとしている安田学と目が合った。彼はフンと言いたげな目をしながらも、どことなく笑ってるように見えた。
サードベースをしっかりと踏みしめ、残りはホームベースだけになる。失意のどん底にいる投手へ背を向け、歓喜の輪を作ろうとしている私立群雲学園ナインのもとへ向かう。相も変わらず頭上からは、ひとりベースを一周しようとしている淳吾への声援が降り注いでくる。自分のひと振りで試合を決められたのは、素直に嬉しかった。
淳吾がホームベースを踏んで試合終了がコールされる。私立群雲学園の野球部員たちが、一斉に抱きついてきた。
試合後の挨拶を終えて、ベンチへ戻ってくると早速淳吾はもみくちゃにされる。中でも1番乱暴だったのは、執拗に淳吾を野球部へ勧誘し続けた相沢武だった。
「最後まで試合に出ようとしなかったくせに、美味しいところだけ持っていきやがって。俺の活躍が霞んでしまうじゃねえかよ!」
「本当だよね。でも、あまり活躍してなかったからいいじゃん」
「……お前、マネージャーなら、少しは力投したエースを労えよ」
「高いけどいい?」
「金を取る気かよ!」
夫婦漫才みたいな相沢武と栗本加奈子のやりとりで、ベンチにいる野球部員全員が笑う。その中で数人が、淳吾に近づいてくる。まずは何かと張り合おうとしていた田辺誠だ。
「今回は活躍を譲ってやっただけだ。次の試合じゃ、俺が必ずヒーローになるからな」
「ああ、任せるよ」
さすがに次の試合でも、今日みたいな奇跡を起こせるとは思わない。出なくていいのなら、その方がありがたかった。面白くなさそうにフンと鼻を鳴らして去っていく田辺誠の代わりに、今度は港達也がやってくる。
「眼鏡……大丈夫か?」
声をかけた淳吾に、これまで見た記憶のない笑顔を港達也が披露する。
「もちろんだよ。不測の事態がある場合を想定して、僕は常に眼鏡のスペアを持っているからね」
「――なっ!? う、嘘だろ!?」
驚く淳吾の目の前で、港達也は「本当だよ」と笑いながら、自分のバッグから壊れていない眼鏡を取り出して装着する。
それに気づいた栗本加奈子が何を勘違いしたのか、目を見開いて「眼鏡が直った!」と叫んだ。
「ちょっと、凄くない!? 仮谷っちがホームランを打ったら、港っちの眼鏡が直ったんだよ! これ、テレビに投稿ものだよ!」
他の部員たちはたいして驚きもせずに、ひとり盛り上がる栗本加奈子を放置している。その様子を見て、淳吾は真相を理解する。
「お前ら……全員、眼鏡のスペアがあるって知ってたな……?」
「えっ!? 嘘だ。だってアタシは全然――」
「……まあな」
栗本加奈子の台詞を途中で遮って、肯定したのは野球部主将の土原玲二だった。罰が悪そうに鼻の頭を人差し指で軽く掻きながら、淳吾に「すまない」と頭を下げる。
「達也が何か考えてそうなのはわかったからな。あえてスペアについては触れなかったんだ。気を悪くしたか?」
「するわけねえだろ。代打の結果がサヨナラホームランなんだからよ」
淳吾が答える前に、何故か相沢武が口を開いていた。もちろん悪い気はしてないので、あえて訂正はしないでおく。とにもかくにも、淳吾は最高の結果を残してチームの勝利に貢献できた。これで今夜は、久しぶりにぐっすり眠れそうだった。
荷物の整理を終えて球場から出ると、どこかの高校の制服を着ている2人組が淳吾たちの前を通り過ぎようとしていた。
「まさか、海洋高校が初戦で負けるなんてな。群雲学園のデータなんて、ひとつも用意してないぞ」
「大丈夫だろ。要注意なのはピッチャーとキャッチャーだけだ。あとは最後に代打でホームランを打った奴だな」
「ああ、あれは完ぺきな一発だったな。どうしてあのレベルのバッターが控えだったんだ?」
「恐らく故障絡みだろ。じゃなけりゃ、スタメンにしない理由がわからねえよ」
当人たちが側にいるなんて、想像もしてないのだろう。歩きながら試合や私立群雲学園の感想を口にする。2人組はすぐに歩き去ってしまったので、呼び止めて会話をする機会はなかった。しかし、周囲で淳吾の評価が急速に高まってるのだけはわかった。
いなくなった2人組のせいで、ますます淳吾はチームメイトから凄いと賞賛されまくる。とりわけ瞳を輝かせているのが、何度も試合に出てほしいとお願いしてきた伊藤和明だった。
「本当にありがとう。仮谷君のおかげで、初めての勝利を味わえたんだ。こんなに嬉しいことはないよ」
「それはよかったな。でもさ、何回も言ってきたけど――」
改めて自分には頼らないでくれと淳吾が言おうとしたのを、主将の土原玲二が「待った」と制止した。どうしたのかと思っていたら、軽く笑って淳吾にお客さんが来てると言ってきた。
球場前でチームが出てくるのを待っていたのは、土原玲二の姉で淳吾の恋人でもある土原玲菜だった。
気を利かせたつもりなのか、キャプテンの土原玲二は現地解散を決めて、他の部員たちもニヤニヤしながらそれに従う。おかげで球場前には、淳吾と土原玲菜が残された。
「……おめでとう。格好良かった」
お互いにしばらく口を開けずにいた結果、土原玲菜がまずは淳吾のサヨナラホームランを称えてくれた。好きな女性の前で恰好をつけられたのもあって、誇らしい気持ちになる。照れ臭いながらも胸を張って、ありがとうとお礼を言う。
「でも……肝心な場面を見逃しそうになってしまったの」
「え……?」
「仕方ないわよね。私の隣に、淳吾を親しげに呼ぶ女性がいたのだもの」
言われてすぐに思い浮かんだのは、小笠原茜の姿だった。ピンチになった相沢武に檄を飛ばしたり、自分流の観戦を楽しんでいたみたいだった。それだけなら何も問題はなかったが、余計な火種を残していってないかが心配になる。何か言われたのか聞きたかったが、どうやって言葉にすればいいのかわからずにおろおろしてしまう。すると土原玲菜が言葉を続けてくる。
「大人の女性みたいだったけど、淳吾との関係ばかりが気になっていたの。試合へ集中しないといけないのにね」
「い、いや、それは……」
「でも、気になって仕方がなかった。気にしないようにすればするほど胸がもやもやしてきて……どうしようもなかったの」
ごめんと謝るべきなのかどうかもわからない。なにせこの歳まで女性との交際経験はなかったのだ。恋人をうまくなだめる方法なんて、知ってるはずがない。ますます戸惑う淳吾の前で、土原玲菜がかすかに涙で濡れた瞳を向けてくる。
「最初は恋愛感情なんてないみたいなことを言っていたけど、不思議ね。交際をしてるうちに……いつの間にか、私は淳吾を本当に好きになっていたみたい……」
「あ……そ、それは、俺もだよ。俺だって――」
――君のことが好きだ。そう言おうとした矢先に、聞き覚えのある誰かの大声が聞こえてくる。
「あ、淳吾君を発見!」
悪い方に絶妙なタイミングで淳吾たちの側へやってきたのは小笠原茜と、その背後をくっついて歩く金魚の糞こと安田学だった。親しげな雰囲気で土原玲菜と向き合っている淳吾を見て、小笠原茜は小さく舌を出して「お邪魔だったかしら」と冷やかしてくる。
「若い2人を邪魔するのはよくないな。俺たちは俺たちで仲良くやろうよ、茜ちゃん」
「だから、勝手についてきたんだから、帰るのも勝手にどうぞと言ってるでしょ」
いつもどおりの冷たい態度で安田学の誘いを拒否したあとで、小笠原茜は土原玲菜が観客席で自分の隣に座っていた女性だと気づく。
「貴女……群雲学園を応援してた子よね。もしかして……淳吾君の彼女だったりして」
土原玲菜がどんな反応をするのか気になって見ていると、彼女は堂々と「はい、そうです」と頷いた。
「あの……そちらは淳吾とどのような関係なのですか?」
「私? あっ! ウフフ。変な誤解ならしなくていいわよ。私と淳吾君は変な関係じゃないから」
「そうなんですか?」
「そうよ。私のお父さんの草野球チームに、淳吾君が参加してるの。特訓したいからって」




