情報の威力と重要性
情報の重要性は最近になって分かったことではない。
何千年もの歴史を誇る戦争では情報を多く握ったほうがより優位に立つことができるし、一対一でも相手の弱点を知ることは自分の勝利に繋がっている。
戦いがなくとも生きるためには情報が必須だ。この時期にはどこに食料となるものがあるとか、どの植物には毒があるとか。とにかく、人は考えることを始めた頃から情報を頼り、武器として使ってきた。
スパイもそうしたことから生まれた職業である。相手の情報を得て、自陣に持ち込むことで優位に立つことを目的としている。その存在こそ、情報の重要性を象徴していると言えよう。
余談だが、戦国時代で野武士や野盗であった者を取りたて使ったスパイのことを素っ破(もしくは乱破)と呼んでいたらしい。スパイと素っ破、わずか三文字のうち二文字が同じというのは、何か理由があるのだろうか。
個人の情報に意味が出てきたのは恐らく最近のことだろう。個人情報保護法が日本で成立したのは2003年のことであるし、危機感を憶えてから対策をしたとしてもその歴史は半世紀にも満たない。
生きること、戦うこと以外の情報は、金に目が眩んだ人間の欲の塊と言える。もしくは目に見えない部分に価値を求める近代の象徴か、はたまた0から1を生み出す神をも恐れぬ所業か。
ベネッセの個人情報漏えいを憶えているだろうか。
2014年7月9日に発覚し情報についての重要性を再認識させたあの事件である。
大抵の人は、そういえばそんなこともあった程度の物として記憶しているだろう。斯く言う私も漏えいに使われた手口程度なら憶えていたが、日にちや犯人の名前などはまったく記憶になかった。いや、そのような事件があったことも記憶から消え去っていた。
先日、ベネッセから封筒が届いたときに、そういえば、と思い出した。要件はまさに、情報漏えいの謝罪であった。500円分の図書カードか、同額の電子マネーか、ベネッセ子ども基金への寄付か、何にせよ一人の情報が500円で保障されたのだ。
事件発覚から5カ月経っての保障というのは仕方ないとしよう。こちらもベネッセを利用していたことを忘れていたほど昔の情報である。正直に言ってきただけまだマシだ。使われた手口はセュリティの穴を突いたものであるから、不服ながらも会社自身に責任はないと言えなくもない。保障が500円というのも、名簿業者の価格を比較すれば安い額ではないから不満はない。だとしても、この沸々と湧きあがる不信の念は今後一切消え去ることはない。例え、ニュースを見ていた当時は他人事で、被害者を冷笑していたにも関わらず。
情報が発揮する威力というものは計り知れない。場合によっては人を殺すこともできよう。そのため、情報の管理というものは細心の注意を払わなければならない。どんな些細なものであっても。そして、どんなに時を経ようとも。そうしなければ、多大な被害とともに情報の重要性を再認識する機会が与えられることになる。今の私のように。
0から生み出した1という怪物が、今我々に牙をむき始めている。いや、既にその牙は、我々に深く突き刺さっているのかもしれない。