回送
「おかえりー」
コタツに入り、テレビを見ていた俺はそちらを見ずに声をかける。ルームメイトが帰って来たのだ。
しかし、返事は無い。いつもなら返事をするはずなのに。
そちらを向くと、ルームメイトの純は俯いたまま立っていた。どことなく、顔色が悪い。
「やべェ……見ちった……」
純は小さく呟いた。
「“見た”って、何をさ」
「…………“ユウレイ”だよぉ‼︎」
純は突然膝から崩れ落ち、俺にすがりついてくる。酒臭い。
俺はビクリと反応した。別に、“ユウレイ”という単語にビクついたのではない。純の怯えようが、半端では無いのだ。
「おぉおぉ……ま、まぁ落ち着けって……」
俺がなだめると、純はうん、うん、と頷いた。しかし、視線が定まっていない。どこを見ているとも言えないような、放心状態に近い様子だった。俺はキッチンへ行き、水を一杯注いで持ってくる。
俺から水を受け取ると、純は一息に飲み干した。勢いがよすぎて、水が口の端から零れる。話を聞くためにテレビの音量を下げ、「何があった?」と聞いた。
「俺な、“みさき亭”で一人で飲んでたんだよ。六時くらいから」
“みさき亭”というのは、T駅の東側にある飲み屋である。俺達がルームシェアしている部屋があるマンションはT駅の西側にあったが、踏切を渡ってすぐの場所にあったので、よく通っていた飯屋だった。……というかコイツ、六時間近く飲んでいたのか。
「うん、そんで?」
「もう十二時近いから帰ろうと思って、店を出たんだ。そんで、踏切渡ろうと待ってたら、見ちゃったんだ……ユウレイを……長い髪の、女の人だ……」
純は小さく震え出した。
「どこにいたんだ?」
「電車の中。乗ってた」
「はぁ?」
俺は表情いっぱいに疑問を浮かべる。
「それ、ただ電車に乗ってた人だろうよ。どうしてユウレイだと思ったんだ」
「その電車、T駅止まりだったんだよ! 回送電車だ!」
必死の形相、といった風である。
「でも……間違えて降りそびれちゃったとか……」
「違う」
純は首を振った。
「乗ったんだ。その回送電車に」
*
その後、純は俺に“どうして回送電車に乗る必要があるのか”だの、“駅員さんが普通確認するだろう”、“なんかその女の人はぼんやり光っていて、透き通っているようにも見えた”だのと言ってきた。“だから、ユウレイなのだ”と。
しかし俺は信じる気にはなれなかった。そもそもその時純は泥酔状態にあった訳だし、回送電車に乗るユウレイってなんなんだ。どうして回送電車に乗る必要がある。それに話から推測するに、純はそのユウレイ女の顔を見ているはずだった。
だが俺が「そのユウレイ女はどんな顔だった? 芸能人でいうと誰似?」と聞くと、う〜んと悩んだ後に「覚えてないな……」と言うのだ。そこの記憶だけ曖昧なのである。
俺があからさまに“信じられない”といった表情をすると、純は「本当だって! 信じてくれよ!」とすがってきた。俺は「わかった、わかった」と適当にあしらい、
「明日一限からなんだから、そろそろ寝れ」
となだめた。
純は不機嫌そうな表情をしていたが、その時もうすでに深夜二時。俺はすぐに自分の部屋で布団に入った。純はそれから風呂に入り、部屋の電気を付けたままリビングのソファで寝た。
*
二週間くらい後の事である。
俺は大学のサークルの飲み会で、都心に来ていた。気付けば時刻は零時近く。急いで駅に向かうと、T駅止まりの最終電車に乗ることができた。
酔っていたのと、電車の心地よい揺れ、暖かな暖房で、気が付くと眠ってしまっていた。車掌さんに肩を叩かれ、目を覚ます。
俺は先頭車両に乗っていたので、電車を降りると乗っていた人の数が見てとれた。せいぜい、十人ちょっとであろう。車内との寒暖差に震えていると、駅の階段を登ってゆく人たちの中に、ホームに降りてくる人が一人、見えた。
(この時間に、ホームに降りてくる? もうこれが最終電車なのに?)
頭の中に疑問が浮かんでいるうちに、ホームには自分と、その降りてきた人、二人だけになった。
黒い長髪に、真っ白なワンピースのその女は、ぼんやりと光っているような気がした。そして少し、透けているような気もした。そこであの純の話を思い出す。あぁ、この人か。この人があの……。
俺はその姿を、美しいと感じていた。怖いとはあまり、思わなかった。酔いはすっかり覚めていて意識ははっきりしていたが、その場を動くことができない。見惚れていた。といってもいい。
その女は階段を降りてくるとホームで少し立ち止まり、電車に乗った。ドアが閉まり、電車はゆっくり動き出す。自分の近くを通り過ぎてゆく時、車内の女の後ろ姿が見えた。その姿はあまりにハッキリしており、急にとても、ユウレイとは思えない気がして来た。
俺は駅の階段を駆け上がり、改札のところにいた駅員を捕まえると、「今、回送電車に女の人が……!」と話しかけた。
すると駅員は、あぁ、と頷くと、少し困ったような表情で、
「よくあることなので。気にしないでくださいね」
と言った。
*
「おかえりー」
純はコタツに入り、テレビを見ていた。こちらを見ずに言う。
そのコタツの上に置いてある、純が食べたのであろうプリンは俺のなのだが、今はそんな事はどうでもいい。
「純っ……! 俺も見たぞっ……!」
純は振り向き、ぽかんとしていた。
「何を?」
「ユウレイだよ……! 女の人の……!」
純の表情がぱぁっと明るくなる。
「マジか! お前も見たんか!」
「うん! 見た! しかも、駅のホームでだ!」
「おおおお! んで、どんな顔だった!?」
「……顔…………。顔………………?」
*
俺は結局、あの女がどんな顔をしていたのかは思い出せなかった。
そして、どうして回送電車に乗るのかも、わからなかった。
ただわかったことは――これはあの駅員さんに聞いたことだが――あの女は毎晩現れ、回送電車に乗って行くそうだ。