翡翠の虎
どうして樹里という名前をつけたのか聞いたことがある。
田舎町に越してようやく環境の変化に身体が馴染んできたころだ。
無邪気に問う幼い私の手を引き、母親はゆっくりと歩いた。
そして辿り着いたのは神社跡の広場。
そこには一本の年代を感じさせる巨木があった。
葉の一枚もついていない枯れ木を見上げ、母親は言った。
『樹が根を張って立つように、大地に足を踏みしめて胸を張って生きて欲しいから。それに今は枯れてても、いつかは綺麗な花が咲くと信じてるの。あなたも少しずつ大きくなっていまに可愛らしい花になるわ。なんたって町一番の美人といわれたお母さんの娘だもの』
母親は年の割りに少し皺が目立ったけど、にっこり笑ったその顔は生き生きしていた。
私の後ろに回り、肩に手を添えて広場の外に身体を向ける。
少し歩くと木々が途絶え町全体を見渡せた。
おもちゃのような家が点在し、米粒のような人が見えた。
雨上がりの晴れた日で水の香りと暖かな陽光が気持ち良い。
母親はそっと呟いた。
『もし倒れそうになっても支えてくれる人がいますように。そして、くじけそうになっても無条件で受け入れてくれる古里があることを忘れないで。それがあなたの名前よ、樹里――』
夢を見た。
温かくて懐かしく、涙が出そうになるほど優しい夢。
しかし夢だと気づいたことで意識が浮上する。
緑が薫り、頬がチクチクする。
髪をなでるのは少し冷たい風。
軽やかな鳥の囀り。獣の声。
柔らかな日差しを感じる。
人の声はしない。機械の音も車のエンジン音もアスファルトの匂いもしない。
目覚めを促すように手の甲に何かが触れる感じがする。
微かな花の香り。
嫌だ。目覚めたくない。
このまままどろみに揺蕩って目を瞑っていたい。
けれど、まぶたが震える。
くぐもった声が漏れる。
ああ、目が覚める――。
ゆっくりと目を開くと力なく投げ出された手の甲に白い花弁があった。
あの巨木から散った花びらだろうか。
ぼんやり見ていると音もなく雪のように溶けて消えた。
一度、二度と瞬きを繰り返す。
丈の短い草が頬にあたりむず痒い。
目が覚めると同時に諦めにも似た気持ちが沸いた。
どこまでも高く果てがない蒼天に、綿飴のようなちぎれた雲が点々と浮かぶ。
遠く緩やかな曲線を描く丘陵が見え、麓にはうっそうとした森林が広がっている。
人工の建築物は一切ない。
どこの秘境だと言いたくなる位、ありのままの自然が目の前にあった。
私は声もなく少し笑った。
秘境じゃない。異世界だ。
ごく自然に受け入れた。
むしろ、十年生きた違和感だらけの世界こそ異世界と思えるくらい心が凪いでいた。
麻痺しているのかもしれない。
横になった私に寄り添うように一本の木があった。
幹は太く枝は幾重にも張り巡らし強く大地に根を張った巨木。あの広場にあった木と瓜二つだ。
違いはこの木には一枚の葉も一片の花もないこと。
ただ、見慣れた広場の木も花が咲いているのは今日初めて見たから裸の木のほうが違和感が無い。
樹皮に手を沿えごつごつとした感触を感じながらゆっくりと起き上がる。
地べたで寝ていたからか筋肉が強張り関節が痛い。
腕や肩をゆっくり回し、服のよれを直しているとポケットの中に硬い感触があった。
ハンカチではない。あれはもう手元にない。
手を入れて取り出し、目を見張った。
黒い石だった。
――宝物でお守り。
耳の内に木霊する声。
そっと握ると角がとれた細長い楕円形の石はしっくり手に馴染み、胸の奥が凝るような熱くなるような言葉にできない感情に襲われた。
私は石を握ったまま振りかぶり……力なく腕を下ろした。
深呼吸をすると再び心が凪いできた。
私は再びポケットに石を入れた。
しばらく何も考えることができず木の幹に背を預けぼんやりと景色を眺めた。
のどかという言葉すら謙遜に聞こえるほどなにもない大自然だ。
空が広く地がどこまでも続いている。
ふと、視線を感じた。
ちょうど死角になっていた場所に一体の獣がいた。
虎だ。
「え」
私は視界に映ったものを瞬きも忘れて凝視した。
虎? あのネコ科の猛獣の?
思ってすぐ否定した。
まず色が違う。
黄褐色で黒い横縞を持つのが虎と認識していたが、目の前に居る獣は足元に広がる草のような薄緑に夜明け前の濃紺の縞模様をしていた。
眼も猛獣独特の黄色ではなく青緑だ。瞳孔が細いのは変わらない。
そして額に翠色の石が埋まっている。透明感のある石は第三の眼のようだ。
虎に似て虎ではない。
なら虎もどきかなと吃驚しすぎてどこか抜けたことを思っていたら獣が口を開いた。
「目が覚めましたか」
喋った。虎、いや虎もどきが。
どうすればいいのだろう。
十年過ごした世界と常識が違いすぎて、もはや頭の中は真っ白だ。
けれど虎もどきは私の反応を待っている。
何か言わないと。返事をしないと。
私は口を開いた。
「お、おはようございます」
躾けられたマナー講座恐るべし。
私は遠い存在になった女性を思い浮かべ寂寥感を覚えながら冷や汗を流すというなんとも器用な芸当をこなした。
そっと虎もどきを伺うと、獣は頬を膨らませ髭をピクピク揺らしていた。
……笑っているのだろうか。
虎もどきは成獣には遠いのか少し小柄で、顔を舐める姿は大きな猫に見えなくもない。何だか可愛いんですが。
「僕を見て恐れも憎しみもしないとは変わった人間ですね」
確かに、鋭い爪と牙を持つ見るからに獰猛な肉食獣なのに、怖いとか恐ろしいとかいう気持ちが沸かない。
私を見る青緑の瞳が理知的な光を湛えているからだろうか。言葉が通じることで驚愕と同時に奇妙な安心感も生まれる。
しかし何者なのだろう。言葉を話す獣など聞いたことがない。
それに憎しみってどういうことだろう。
疑問の答えは獣自身が教えてくれた。
「幻魔を目にするのは初めてですか?」
「げんま……」
目の前に佇む獣の艶やかな毛並みに美しい横縞。深い透明感を持った瞳。
日本では――いや、地球では存在しない緑色の虎。
どことなく神秘的な幻夢の魔性。
月が見せた幻のように美しい存在。
脳裏に浮かんだのは月の光を紡いだような銀の髪の少年と、彼に寄り添う抜き身の刀のような青年。
金色の空間で振りほどかれた手。
「ずいぶんと呆けた表情をしていますね」
思いのほか辛らつな言葉で我に返った。
人間臭さと野生の獰猛さが不思議と混じりあっている青緑の瞳が細められる。
「とりあえずは運が良かったですね。今ここにいるのが僕ではなくて好戦的な幻魔なら今頃あなたは物言わぬ躯となっていたかもしれません」
「そんな……」
至極当たり前のことを言っている素振りに声が少し震えた。
目覚めてものの数分で常識が通じない世界だと実感した。いや、そもそもの計るべき常識が違うのか。
けれど――。
私は無意識に胸に手を当て、込み上げる苦い思いを押さえた。
「他に人がいませんでしたか? 十歳の男の子と二十歳くらいの男の人ですが」
「僕があなたを見つけたとき他に誰もいませんでしたよ」
「そうですか……」
やっぱりという思いが強かった。
私から離そうとしても決して離れなかった手が意識がとぎれる直前になって離されたのだ。
私一人異世界にいる状況は想定通りなのだろう。
突然現れ懐いたと思ったら離れていった子供。
そんな突拍子もない行動をする子供を叱るでもなく当然とばかりに従う青年。
現状を作り出した元凶ともいえる二人の行方は知れず、どう捜せばいいのか検討もつかない。
目が覚めて初めて出会う生物が緑色の虎という非常識な世界。
そして着の身着のままなので落ち着ける場所も必要だ。
解決する糸口さえつかめない難題ばかり。
――けれど。
内ポケットに感じる硬い感触。
あの子供から渡された石だ。
私は服の上から硬い感触を確かめる。
麻痺したように凪いだ感情が少しずつ揺らいでいくのを感じた。
私は顔をあげて虎を見た。
「人のいるところを教えてください」
記憶のはじまりは白い病室。
苦しくて怖くて訳も分からず泣いた。
手を引かれるまま引っ越して、漂う光の玉を見てみぬ振りをして、本当の自分に気づかぬ振りをして過ごした。
目をそらし続け流されて行き着いた先が今だ。
歪みを感じながらも安穏と過ごし十年も守ってくれた女性を深く傷つけた。
もう倒れそうになっても支えてくれる人はいない。
無条件で受け入れてくれる古里もなくなった。
もう預かりものの身体で目を覆うのはやめよう。
樹里と呼ばれる存在は十年前の事故で死んだ。
私は樹里の身体を借りた別の存在だ。
正体は私自身も知らない。
自覚すると頭の靄が晴れていくようだった。
すべての答えを知ってそうな存在はあの少年だ。
絶対に見つけ出して納得のいくまで説明してもらう。
決意した瞳で幻魔を見据えると、深い青緑の双眸が返ってきた。
「変わった服装をしていますがあなたはこの辺りの人間ではないのですか?」
オフタートルのセーターと肌触りの良い綿のパンツ、スニーカーというラフな格好だが、この世界では風変わりな服装なのだろうか。
「違います。ここがどこかも分かりません。一緒にいた二人を捜しています」
少し頭がおかしい人と思われそうな発言だが、幻魔はそれ以上追求せずに考えるそぶりをした。
「人里ですか……」
そして後方に視線を向けて遠く広がる森を見た。
「あの森を越えたところに小さな村があります。いや、あったというべきでしょうか」
不吉な予感を感じさせる背筋が少し冷えた。
「どういうことですか……?」
「滅ぼされたのですよ。僕と同じ幻魔にね」
そう言った魔性の虎の瞳は第三のそれのような額の石より硬質めいて見えた。