閉幕
私とよく似た顔立ち。同じく少し癖のある髪。
安堵と戸惑いがないまぜになった黒い瞳が私の姿を写すと、母は少し険を含んだ声で私を叱った。
「若い娘が散歩が長すぎるのではないかしら」
事実なので言い訳できない。
素直に謝った。
「ごめんなさい……。けどよくここだと分かったね」
家の近くに流れる川沿いが私がよく行く散歩コースで、この広場はお気に入りの場所だが少し家から離れているため、丁度帰り道の学校帰りに寄ることはあっても、夜間散歩コースとして使うことはない。
「何となくね、ここじゃないかと思ったの。それにしても……」
母は肩をすくめて私の後ろに聳え立つ巨木を見た。
「お母さんははじめて見たけど本当に立派な木ね。とっても綺麗な白い花……それに」
今度は木のふもとに立つ大小二つの人影を見る。
「ずいぶんと目立つ人達ね。格好良い人と綺麗な子」
私は思わず息を呑んだ。
顔立ちも着ている衣装も明らかに日本人とは違う二人を見て、さして驚きもなく受け入れている。
それどころか眼福とばかりに喜んでいるようにも見える。
「お母さん、彼らのこと知ってるの?」
「いいえ? 初対面よ」
母は首を振ると笑みを引っ込めた。
「けれど、今のあなたとどこか通じるところがあるから」
静かな黒い瞳が私を見つめる。
いったいどういうことだろう。
母は私を見ているようで遠くのなにかを視ているような気がした。
視界だけではなく思考も共有できない……当然の事実を改めて突きつけられた気分だった。
凪いだ瞳は私をただ風景の一部として見ているようで少し背筋が寒くなった。
先ほどまで騒がしかった子供が急に静かになったのも不安に拍車をかける。
「お祖父さんのこと覚えてる?」
突然話を振られ困惑した。
お祖父さん……母方の祖父のことだろうか。
今住んでいる家は母の実家なので、病気で他界するまで共に暮らしてきた。
ただ、あまり可愛がられた記憶がない。
光の玉を見ていた私をぼんやりした子供と捉え、よく叱られていた。
母も亡き祖父を思い出しているのだろうか、寂しげに笑った。
「この広場はね、お祖父さんが好きだったところなの。静かで、人が来なくて、のんびり過ごすには最適な場所だったのね。この大きな木もずっと幹と枝だけの姿で立っていたんだって。けど、一度だけ花が咲いたと言ったの。いつか分かる?」
巨木を見上げた視線が降下し、私に定まる。
「十年前、あなたが事故に遭った時よ」
瞬間、脳裏に浮かんだのは無機質な冷たい部屋。
身体から伸びるたくさんのコード。
目の前に翳した手が自分のものではないようで怖かった。
やつれた顔で泣きながら縋り付く女性は後に母親だと教えられた。
そして今。
年をとり少し皺が増えた母親と成長した娘がお互いの中で十年前を視る。
娘として生きて十年、避けて通った話題を今夜二度も出され、心のどこかで演劇が幕を下ろそうとしているように感じた。
樹里を演じた私は役を終え舞台から退くような……。
では、本当の私は?
役者を演じた私自身はいったい誰なのだろう……?
「――イチキ」
数十分ですっかり聞き慣れた声が耳を捉える。
母が来てから黙っていた少年が口を開いた。
しかし、内容は予想外のものだった。
「そろそろ通訳してくれない?」
「――え?」
今の母との会話が通じていなかった?
戸惑いもあらわに母を見るとやはり困惑顔だったが、やがてゆるく首を振った。
「覚えていないかもしれないけど、事故が遭って回復した直後の樹里は……あなたは、言葉が通じなかったの。ちょうど今、そこの子供と話したように、何を言っているのかさっぱり分からなかったわ」
「そんな……」
子供が使っている言葉は日本語ではない。
確かにそう、出会った直後に感じた。
何を言っているのか理解できるが、言葉として交わしているのは聞いたこともない外国語だと思いながら、私も無意識にその言葉を使った。
初めて耳にするはずの言語を瞬時に訳し、発した。
そして母とは日本語を話している。
母が現れてから子供が静かになったのは何を話しているのか分からなかったから。
私が当たり前に使っていた言葉が子供にとっては異国の言葉だった。
ちくりとこめかみが痛んだ。
――当たり前に使っていた?
今、母は言った。
事故に遭った直後の私とは言葉が通じなかったと。
……そうだ。
記憶が始まった十年前、多くの医師や看護師に囲まれ言葉をかけられたが、発音も内容もまったく理解できなかった。
すべて異国の言語のように。
血の気がひいた。
暗くて表情が見えない母の側を光の玉が通り過ぎる。
「言葉はしばらくして通じるようになったけど、事故以前の記憶はなくて、よくあらぬ方向を見ては何かいるって言ってたわよね。小学校に入学したあたりから何も言わなくなったけど、やっぱりどこか上の空だった。ぼんやりしているのかと思ったけど、そうじゃなくてそこに何かいるように視線を向けていた」
ゆらりと精霊と呼ばれる光の玉が舞う。
「――今みたいに」
私は息を呑んだ。
母の黒い瞳が私を捉える。
お互い気づかない振りをして守っていた領域を侵された気分だった。
駄目だ……。
もう目を瞑ってはいられない。
母は樹里という容れ物ではなく私という魂を見る。
私は母親と言い聞かせ思い込もうとした人物を見る。
緞帳が降りて樹里と母親が見えなくなる。
観客席に座った女性と私が十年続いた演劇を見終えゆっくりと現実に還る。
「ごめんなさい……」
女性が崩れ落ちた。
顔を覆いくぐもった声をあげる。
「何が起こったのか分からない。夫と娘が事故に遭ったという知らせを聞いて病院に駆けつけたけど、夫は即死で娘は重体……覚悟を決めてくださいって言われたわ。けど奇跡的に娘は一命をとりとめた。だけど、病室で再開した時、娘はわたしを知らない人を見るようにみていたの。言葉も通じなかった。すぐにおかしいと思ったわ。これは樹里じゃない、何か別の存在だって……。けど、身体は温かく目を開いてわたしを見たの。樹里と同じ顔がわたしを……。あの事故で夫を失って娘までいなくなったらと思うとどうしようもなく怖くて娘だと思い込むしかなかったの……」
慟哭する女性を前に、私は立ち尽くすしかなかった。
覚えている。
目が覚めたとき身体がひどく重くて、コードがすごく不快で、声をかけてくる女性は誰だろうと思った。
母親だと聞かされて戸惑った。
違和感のはじまり。
けれど……。
「だめだよ」
歩み寄ろうとして後ろ手をとられた。
「離してっ……」
しかし、振り払おうとした小さな手のひらは磁石のように吸い付いて離れない。
「あの人間はイチキを娘ではないと認めた。なのに再び親子を演じるの?」
静かな声は私を諭すでも言い聞かせるでもなくただ淡々と事実を述べているだけで、それが余計不安に震える心に突き刺さる。
舞台は幕を下ろした。再演は許されない。
私は唇を噛み締めた。
「けど、たったひとりの母親で娘なの。偽りでも歪んでても私は十年間樹里として生きてきた。だから……」
「なら血のつながったその肉体だけ返すの? 魂の抜け殻だけ」
心臓がとまりそうになった。
この身体を離れたら私という存在はどうなってしまうのだろう。
溶けて消えてしまうのか、それとも私のような歪んだ存在でしか目に出来ない光の玉のように当てもなく漂うのか。
どちらにしろ、ひととは呼べないものになってしまう。
「どうしようもないと自覚した?」
「してない」
「樹里の肉体を借りた別の存在だと認める?」
「認めない」
頑なな否定の言葉は逆の意味でしか捉えられない。
「樹里は……」
かすれた声が聞こえた。
母親だった女性が涙でぐちゃぐちゃの顔で、それでも眼差しは強く私を見る。
「娘は、もういないのね」
私は言葉をなくした。
彼女は顔を拭い立ち上がった。
けれど、近づくことはない。
「十年もつき合わせてごめんなさい。わたしは大丈夫……だから、あなたは自分の思うとおりに生きなさい」
別れの言葉とともに決して超えられない壁を作られた。
「私は……」
充血して潤んだ瞳は逸らされることなく私を見据える。
頭では理解している。
感情が受け入れられないだけ。
だから強い瞳を受け止められず顔を背けた。
「サヤ、お願い」
子供の声に青年が頷く気配がし、周囲に漂う空気が一変した。
青年の身体から金色の光が零れ落ち、瞬く間に長身を覆った。
右手に触れた巨木も可憐な花を咲かせたまま伝う様に光を纏う。
次いで左手が子供の肩にかかった。
骨ばった大きな手から細い肩に光が伝わる。
月光に照らされた艶めく髪が金色の光を纏う様は神話の一編のようで思わず見惚れたが、つないだ手を通じて光が私に及んだ時は思わず悲鳴が零れた。
けれど磁石のように吸い付いた小さな手は離れない。
これからこの身に起こることを思い、じわりと恐怖が襲う。
光は身体を覆うだけでなく内側まで入ってくる感じがした。
金色の粒子一粒一粒が細胞に浸透し、目に見えない心の部分まで到達しそうな、言葉で表せない不思議な感覚。
しかし思った不快感はなかった。
更湯に入るようなどこかくすぐったいけれどほんのりと温まる感じ。
どこか遠くに意識が飛ばされそうになる。柔らかな光は必死の抵抗すら溶かし、瞳がゆっくりと閉じそうに――。
寸前、真っ赤に泣きはらした目を私に向ける女性の姿が飛び込んだ。
瞬時に思考が鮮明になる。
無理にでも小さな手を振りほどこうとして――動けなかった。
彼女は笑っていた。
幾筋もの涙の跡が残る顔で微笑んでいた。
わが子を慈しむがごとく、慈愛に満ちた表情を見て分かってしまった。
幕が降りた今も、樹里の内に息づく私というこころは、彼女にとって樹里とは別のもう一人の娘なのだ。
けれど、彼女はもう決めている。
心から流れる血を微笑みで隠しながら、あえて私を突き放し、再び娘を失うという非情な現実を受け入れようとしている。
どれほど悲痛な覚悟か想像などできない。
なのに私一人未練がましく樹里の肉体にしがみついてどうなるのだろう。
もう知らないふりをした親子には戻れないのに。
私は少年の手を握り締めると血がにじむほど唇を噛み締めて、女性に告げた。
「――ありがとう。お母さん……千里、さん」
名を呼ばれ、母と慕った女性は――千里さんは目を見開き、小さく頷いた。
「どうか元気で――」
その言葉を最後に私は目を閉じた。
金色の光を全身に感じ、再びこわばった身体から力が抜ける。
光に包まれるまま身を委ね、張り詰めた意識が溶け出す。
側で少年の声が聞こえる。
「予言のこと、忘れないでね」
そういえば託宣の子とかうつろう娘とかしかつめらしいことを言われた。
詳しい内容は……。
ダメだ、金色の光は思考をほどく力があるのか何も考えられない。
つないだ小さな手のぬくもりだけが拠り所だ。
――なのに
突如、手が振りほどかれる。
伝わった体温を残したまま思わず伸ばした手は空を切り、思わず見開いた目に映ったのは急速に遠ざかる小さな人影だった。
巨木もそれに触れる青年も泣き笑い顔の女性も、遠く綺羅星のような光の帯に阻まれて見えなくなる。
白い花が散ってゆく。
無音の中で金色の光にかき消されることなく微かな感触がくちづけのように髪に頬に感じる。
「どうして……」
震える声で呟くが応える声はない。
花が散る。
白い、白すぎるひとひら。
雪のような清い白に包まれて、
視界が暗転した。