生と死の世界
我に返って恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
思いついた言葉をそのまま口にしてしまった。
それも上から目線で。
それも銀髪のきれいな外国の子供に日本人めいた名前を。
子供は怒るだろうか。それともあきれ返るだろうか。
相手は人間。ペットの名づけとはわけが違う。
白い花びらが風に舞い踊り、光る球が遊びを誘うように側で揺れる。
青い光に晒され子供の伏した表情が明らかになる。
凪いだ穏やかな表情だった。
微かに微笑みを形作るくちびる。優しく細められた瞳。月光色の髪は天上の月より輝いている。
彫刻のように精巧な美しさを持った少年は、決して人の手では作ることのできない感情という美を私に見せつけた。
「ありがとう。僕に名前を与えてくれて」
形の良いくちびるが歌うように声を奏でる。
「そう。これは夢でも幻でもない現実。僕がこの銀月の世界にやってきて君と出逢うのも、君がイチキであることも、すべて予言された運命という名の現実」
紫の瞳に微かに影が差す。
「何度も夢に見た。眠れない日はまぼろしで現れた。目が覚めて、我に返ってどうしようもなく寂しくなって……白い悪夢に囚われながら白い楽園を夢見た。……ねえ、イチキ?」
「なに……?」
イチキではないと言い返すことも忘れていた。
少年は笑った。
瞳は感情を表さず静かに、くちびるだけ弧を描いていた。
「この木の名前、知ってる?」
白い花びらが舞い、少年の手のひらに小さなひとひらが触れる。
私はゆっくりと頭を振った。
少年は愛おしむように白い一片を見た。
「真実の白っていうんだよ」
囁く声に誘われるように目蓋の裏に景色が浮かぶ。
それは草花がさざめく緑薫る世界。
新緑の地面と澄み渡る青い空、天と地を結ぶように一本の木が聳えていた。
幹の太さや枝のしなり具合、満開の花まで今子供のそばに佇む木と瓜二つだ。
その花びらはやはり清く白い。
生命力あふれる幹を背に子供が立っていた。
月光のような銀色の髪は日の光にも映えており、眩しそうに細めた瞳は芽吹いたばかりの草花よりも生命力に富んでいる。
命が息吹く美しい世界に少年は立ち、白い花びらを手に取る。
そっと嗅ぐ姿は実に絵になっていた。
ふと少年は私を見た。
違う、私の背後にあるなにかを見つけたのだ。
そして笑った。
雨上がりのような柔らかな笑みだった。
懐に抱えた雛を見るような、絶対の安心感を与えてくれる親鳥を見るような、胸が苦しくなるほど優しい表情だった。
誰かがいるのだろうか――振り返ろうとして一陣の風が吹いた。
思わず伏せた顔を再び上げたとき、目の前に広がっていたのは死の世界だった。
生あるものが息絶えたかのような静寂の中、音もなく舞い散る白い花。
先程の少年がひざを抱え座り込んでいる。
艶のない髪と感情という光を失った瞳。
小さく折りたたむように蹲った細い身体に葬送するように白い花が舞う。
温かさを感じさせない白さ。
心まで凍えさせる死神の指のようなひとひら。
違う。花ではない。
これは……。
「雪……?」
私は夢から覚めたように瞬きを繰り返した。
少年は変わらずそこに在り、私を見上げていた。
雨上がりのような笑みでも生気のない表情でもない。
ただ静かに私を窺っていた。
私は呆然と空を仰いだ。
今舞っているのは、子供が手のひらで受け止めたのは花びらだろうか。雪だろうか。
どこまでも穢れのない白い存在に身体が硬直する。
握りしめた小さな手のひらが再び開いたとき白い片はなくなっていた。
幻のように。
けれど。
「幻でも見た?」
今度の笑みは肌寒さを感じた。
同じ子供の表情でこうも印象が変わるのかと恐ろしくなる、貼り付けた仮面のような底の見えない闇を感じさせる暗い笑みだった。
冷や汗が背中を伝う。
子供を突き放し、この場を立ち去りたい衝動に駆られた。
気味の悪い子供。
理解できない言動をとる不思議というより病的な少年。
これ以上関わってはいけない。
捨て置けないというのならすぐにでも警察に連れて行くべきだ。
もう会話をするべきではない。
神秘的でありながら魔性のような存在に引き込まれ揺さぶられ、私という存在が分からなくなってくる。
私は白くなるほど手のひらを握り締めて一歩足を引いた。
「――――!?」
紫の瞳が見開かれる。
私は幼い身体を抱きしめていた。
「君は幻じゃないよ」
子供の心に直接響くように祈りながら言葉をつむいだ。
「ちゃんと此処に居る。雪みたいに溶けて消えたりしない。身体も温かいし触れることも出来る。君の言っていることはわからない。けど、理解できる」
私も同じだから。
記憶のはじまる十年前から今日まで他人と同じものが見えなかった。
世界には様々な色の光の玉があり、それが普通だった。
赤や黄、青や緑といった色鮮やかな光球がいたるところで存在し、アスファルトの単色の世界を華やげた。
しかし、誰も分かってくれなかった。
嘘つきと罵られ、叱られ遠ざけられ、私にとって当たり前のことが他の人には通じないと実感した。
他人と同じ視界が共有できない辛さ。
世界からつまはじきにされたような孤独感。
子供もまさに同じ立場だ。
分からないと。
これ以上関わらないほうが良いと。
私も同じ言葉を何度も告げられた。
だけど私には母がいた。
お互いの普通が異なり、同じ視界が共有できなかったけれど側にいてくれた。
分からないけど理解してくれた。
私は子供の顔を覗き込む。
宝石のように綺麗な瞳。
けれど私を見返す紫の双玉にはただの石には決してない光がある。
「私は君の言うイチキではないし、まだ会ったばかりで君が何者か知らないけれど……名付け親でしょう?」
気恥ずかしさを隠して笑うと、少年はくしゃりと顔を歪めて泣き笑いの表情になった。
作った笑みではない、染み出るようなそれ。
瞳が無機質な紫水晶から温かみのあるラベンダー色になった。
「充分だよ」
少し声が震えて聞こえるのは気のせいだろうか。
思わずといった風に私の胸に顔を埋め、服の裾を強く握り締めた。
「生まれて十年、今やっと僕の存在が現実のものになった」
「え」
少年の搾り出したような言葉に、私は声を詰まらせた。
疑問を浮かべた瞳に見つめ返され慌てて頭を振るが、見た目通りの年齢と知ったため驚いたのだとは言えなかった。
子供に見えて実際は年をとっているとか小説のような設定を感じたとは言えない。
青い光球に照らされ艶めく髪を撫でながら、私は安堵とかすかな戸惑いを覚えた。
大人びた笑みと年相応の幼さ、そして脆さ。
こんなに面倒で手のかかる子供は知らない。