うつつ
音も無く花びらが舞う。
真白い雪のようなひとひら。
どれくらい時間が経ったのだろう。
色とりどりの光の玉が舞う。
青や黄色の光球を従え少年は薄く笑った。
その姿は美しく神秘的だがどこか背筋を凍らせる怪しさがある。
私は慎重に問いかけた。
「十年前……?」
「そう――樹里という器を手に入れた時」
息がとまるかと思った。
爪が白くなるほど服の裾を握り締める。
飛躍しすぎた話で理解の容量を超えている。
器とはなんだろう。入れ物のこと?
樹里という名前。イチキという言葉。
同じものを差すように言いながらも、実際はそうではない、まったく別の存在。
それなら少年が言っていることは――。
「樹里が身体。イチキが精神ということ?」
少年の目が細められた。
私は風にあおられた髪を撫で付ける。
「ごめんね。理解しようと努力したけど無理だった」
私の冗談交じりの笑みに少年も表情をゆるめ、息が触れるくらい近く顔を寄せた。
「構わないよ。僕はイチキの存在を欲しただけで、イチキの理解を求めているわけじゃないから」
少年の笑みが深くなった。
底を感じさせない怖いほど透き通った紫の瞳。
私は背中に流れる冷たい汗を感じて息をのむ。
「ちょっと待って。何を言っているのか分からない。そもそも君は……」
言いかけて子供の名前も知らないことに気づいた。
場の雰囲気に流されて相手が子供ということもあり親しく接してしまったが、そもそも少年とは初対面で装いも見るからに怪しくて……。
「私は樹里。イチキではないわ。そして君は誰? 名前は?」
とりあえず少年の主張を否定して尋ねると思いのほか静かな声が返ってきた。
「僕には名乗れる名前がないんだ」
名前がない?
そんなことがあるのだろうか。
私の知らない世界では――少年の言う赤い月と精霊の存在する世界ではなく、地球上の感知できない場所という意味だけど――名づけられることなく生まれてすぐ捨てられる子供もいるという。
「でも君を呼ぶのに名前がいるわ。生まれてから今まで誰とも関わってこなかったわけではないでしょ? それなら呼び名があるはずよ」
「確かに一人では生きていけない。誰とも関わらなかったら、こうしてイチキと会って話すこともできなかった」
「だから人違いだと……」
「それでも名乗れる名はないんだ」
私は口を噤んだ。
名前を持たない子供。
もしくは持っていても名乗れない子供。
どれだけ訳ありなのだろう。
私は少年の肩に手を置くとゆっくり身体を引き剥がした。
満月の色の髪。宝石よりも神秘的な瞳。
後十年もしたら誰もが振り向く美青年となることが簡単に予想できる。
しかし、美しさと同時にどこか脆さを感じさせる。
存在感が希薄で瞬きをすると消えてしまいそうだ。
――この子供は本当に人間なのだろうか。
別世界から来て精霊の存在を口にする、儚さゆえの妖しさを秘めた少年。
「怖い?」
子供が首を傾げて目を細めた。
一見すると可愛らしいしぐさだが妙に艶めいて見える。
私は深呼吸すると口を開いた。
「怖いわ。何を考えているか分からないし、とても現実とは思えない」
「そうだね。夢を見ているのかもしれない」
私はかぶりを振った。
「いいえ。夢じゃない」
そう。
満開の花も、色とりどりの光の玉も今この場に……現実に存在する。
目の前の美しい子供もこんなに柔らかくて温かい。
「現――」
子供の目がゆっくりと見開かれる。
「君は夢でも幻でもない。この木も花も、光の玉も全部現実。一瞬で消え去る儚いものじゃない。私には想像できない、夢でも起こりそうに無い風景で存在だもの。なら現実ってことでしょう?」
私は笑った。投げやりを通り越して晴れ晴れとした笑いだった。
「だから君の名前は現―」。名乗る名前がないのなら、名乗れる名前をあげる」
上から目線すぎただろうか。言い切った後で羞恥心がわいた。