予言の子
草と土の匂いがする。
私たちの周りを黄色と緑の光が遊ぶ。
物心ついたときには見えていた光の玉。
当たり前のように側で感じたからそれが何か気にすることはなかった。
他の誰も見えていないと知ったのはほどなく。
看護師に気味悪がられ医師にしかめ面をされ、祖父母を名乗る老人たちはには嘘をつくなと叱られ、やがて可愛がってくれた周囲の大人たちは次第に距離を置くようになった。
変わらず接してくれたのは母親だけ。
けれど母親も見えていなかった。
様々な色の光が何なのか分からない。
だけど自分に危害を加えるひとはなかったから目に見える空気と判断した。
そして十年。
長い月日で少しずつ感じられなくなった光が再び鮮やかに輝きだした。
銀の髪は思いのほか柔らかく、頬を撫でるようにくすぐった。
子供の高めの体温を布越しに感じ、不覚にも目の縁が赤くなった。
これはただの子供の抱擁。
どう見ても少年は外国人としか考えられないので友愛の意味を込めたハグだ。
流されてはいけないと言い聞かせる。
しかし言葉は胸の中に自然と入っていった。
「私たちの世界……?」
ささやきに似た声をなぞらえる。
子供の息が耳にかかる。笑ったようだ。
「そう。僕たちの住む世界」
世界。
地球上すべての地域や国家のこと?
世の中のこと?
違う。
多分、そういう意味ではない。
私が理性と離れた部分で思い浮かんだのは、小説や漫画で出てくる仮想世界。
文化は中世ヨーロッパ風で町の外は魔物が闊歩し人々は剣と魔法を扱うファンタジー。
しかし、あくまで想像上の産物であり、果てしなく手の届かない場所だ。
私は少年の頭越しに花舞う木を仰いだ。
ここは日本だ。
駅がありショッピングセンターがあり学校があり家がある。
私にとってはたったそれだけのちっぽけな世界だけど、銀髪の少年が言葉にする訳のわからない世界ではない。
少年も子供らしく好きな冒険譚を語っているにすぎないはず。
けれど、何故だろう。
満開の花を見て少年と言葉を交わしてから違和感が拭えない。
六歳までの記憶がない違和感。
他人には見えない光が見える違和感。
常人では考えられないほど人込みや汚れた空気に弱い違和感。
そして知らないはずの言葉を口にする違和感。
月が満ちている。見慣れたはずの黄色い月ではなく白い月。
けれど、これにも違和感を覚える。
「この世界ってほんとに月が刃の色なんだね」
子供の言葉に意識が戻る。
「刃の色……?」
真白い半円状の空間に入ってからは、いつも見慣れた黄色い月は日中に浮かぶ白い月が淡く発行しているように銀色に見える。
だけど……。
「これが細い三日月なら夜空に刃を突き立てたように見えるだろうね」
なんで子供がそのような物騒なことを言わなければならないのか。
少年の環境を不思議に、そして少し痛ましく思う。
私は少年から少し離れて柔らかな銀色の髪を撫でながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「月の色は君の髪と同じ綺麗な銀色よ。鋭い刃ではなく透き通った水面のような……。そう、あんな感じ――」
言ってすぐ失言に冷や汗をかいた。
少年の近くにいた光は玉は青みを帯びた銀色だったのでつい指指してしまった。
紫の瞳が私の指の先を見据える。
――嘘つき
子供のころによく言われた言葉。
現在の家に越して来た要因のひとつ。
当時六歳だった私は、大人には見えない光の玉でも子供には見えるのではないかと一縷の希望を託し、退院後一ヵ月遅れで入学した私に率先して声を掛けてくれたクラスメイトに話した。
しかし結果は嘘つきと呼ばわり。
周囲から孤立し、しだいに体調も芳しくなくなった。
そして入学後僅か二ヵ月で、母親に連れられ自然豊かな田舎町である現在の家に居を移した。
十年前の記憶がまざまざと蘇る。
一件で懲りた私はそれから一度も怪しげな素振りをしないよう自分を強く戒めた。
しかし、この子供にはペースを崩されてばかりで、思わず何気ない言葉のようにこぼれ出た。
この少年もあの頃のクラスメイトのように大きな瞳に非難の色を湛えて嘘つきと言うのだろうか。
私はにわかに緊張して少年の言葉を待った。
「ああ、確かに。水の精霊の纏う色に似ている感じはするね」
少年の視線と言葉は私の指し示す所を、光の玉を視界に納め、認識したかのように見えた。
しかし……精霊?
まさにファンタジーな言葉だが、幻想のような花を咲かせた木と幻のような儚げな美しさを持つ少年と共に在る現状は、この場が異世界といっていいかもしれない。
少年の言う言葉を真に受けるのならば、この手のひらサイズの光の玉一つ一つがすべて精霊なのだろうか。
ならば田舎町全体の数倍、東の地区にいたっては数百倍の精霊がこの小さな広場に集まっていることになる。
「イチキの周りには火と風の精霊が多いね」
「だから私は人違いで……」
言葉が詰まる。
私の周囲に見える光は、確かに燃え上がる火を爽やかな風を連想する緋色と薄緑だ。
「君には見えるの……?」
「もちろん見えるよ。だって」
少年は光が舞い遊ぶ広場を見回し、天に輝く月を見上げて強い意志を込めた口調で言った。
「血のように紅い月がある世界。そして精霊が自然を写す世界。そこが僕たちが在るべき処だから」
少年の言葉に眉をひそめる。
血とか刃とか平和とか程遠い言葉を放った少年の瞳は変わらず澄んでいて、巨木を従え宵闇に浮かぶ繊細な表情も相まって神々しくすらある。
しかし痛みを感じない精巧な人形のようで痛々しい。
内容があまりに抽象的すぎてかけるべき言葉が見つからない。
いや、私が理解できていないだけなのか。
悩むということは理解しようとしていることなのか。
紅い月。精霊。
普通なら笑い飛ばす話だけど子供が嘘を言っているように思えなかった。
それどころか、どこか心の奥底で納得している自分がいた。
だって私は普通ではないから。
当たり前のことが普通というのなら、私にとって他の人が目にする世界すべてが普通ではなかった。
記憶が始まって今日までの十年間、違和感の連続だったから。
みんながおかしいと思ったけれどおかしいのは私だった。
それならば異常なのは私だろう。
在るべき処はどこだろう。
少なくとも私の目に見える範囲にはなかった。
母親という存在がいてもその隣で力を抜くことはできななかった。
血の繋がった親子でも心を隠しお互い仮面を被って過ごしてきた。
同じ視界は共有できない。
――サミシイ
心が悲鳴をあげる。
十年前、私を自覚した時から、今もずっと。
普通に振舞って、普通に笑って。
だけどすべてが作り物。
周りに敵を作らないため無意識に作り出した見えない壁。
どこまで高くなったのだろう。
もう自分で崩すことは出来ない。
周囲の視線を気にして、合わせようとして、それでも心は冷静で。
自らで作り出した壁に潰されそう。
「僕はイチキと同じ」
小さな指が私の目元を拭う。
「同じ場所で同じ目線で同じものを見て過ごした。それは決して長くない時間だったけどお互い絶対の存在だった」
語る瞳が穏やかだから羨ましいと思ってしまう。
そこまでの思いを躊躇なく語る子供が。語らせるイチキという存在が。
けれど……。
「私はイチキではないわ」
「イチキだよ。そう予言されてる」
私が首を傾げると、子供は目を伏せて歌うように声をあげた。
「刃の色を放つ満ちた月の下、双子の木に導かれ託宣の子とうつろう娘は出逢う。真白き花と幾千もの精霊に見守られ唯一の存在と再会す」
涼やかな声は余韻を残し夜空に消える。
私は言葉も忘れて聴き入った。
子供は一度目を閉じるとゆっくりと瞼を上げ、私に視線を外すことなく言った。
「知りたくない? 十年前、今の自分が始まったわけ」
くらりと眩暈がした。
少年は目を細めて笑った。




