夢か幻か
夜空は薄い雲が広がり明かりといえばその周囲だけを頼りなげに照らす街灯のみ。
だけど、慣れた道なので恐ろしさとか抵抗はない。
近隣の家から談笑が聞こえる。
ぬるい風が吹き、癖のある髪がふわりと揺れる。
私は夜道を歩いていた。
散歩に行くと告げると、母はそう、と一言だけ呟いた。
思い出すのは夕食での出来事。
お互い当たり障りのないことを話しながら、時折箸を止め、真剣な面持ちで黙り込んだ。そして母は昔話をした。
私の知らない私の幼いころの話を。
「樹里はやんちゃな子でね、目を離したらすぐ居なくなってたわ」
例えば三歳の夏、デパートのマネキンによじ登っていたり
五歳の秋、近所の子供とかくれんぼをしているうちに数キロ離れた隣町に行っていたり
相当なおてんばぶりは今となっては笑い話の種になりそうだ。
――本当にそれが私自身のことなら
街灯が明滅する。
遠くに自動車の走る音して思わず空咳が出る。
病気ひとつしない健康な子供だったと聞いたけれど今となっては信じられない。
三歳の春も五歳の夏も覚えていない。
幼すぎて覚えていないのではない。
私はある時を境に突然記憶が始まった。
六歳の春、病院のベッドの上だ。
最初に覚えた感情は戸惑いだった。
知らない人が泣いている。
何か知らない言葉を必死に話しかけながら私に縋りついている。
次は嫌悪感。
身体は重くて動かなくて、たくさんの紐のようなものでつながれていて、それが非常に不快だった。
そして寂寥感。
なぜか分からない。こころに穴が空いたみたいに寂しくて泣いた。
それからすぐ白い服を着た中年の男性や若い女性が沢山やってきて……。
その先は今もあまり思い出したくない。
やがて今住む町に越して数ヶ月期間をあけて小学校に編入した。
そして中学、高校へと進学するにつれ身体も成長し、勉強だけは苦手だったが仲の良い友達も出来た。
しかし、テスト勉強に頭を抱えるとき、髪型をチェックするため鏡に向かったとき、友達と他愛無い良いお喋りをしたとき、そうした日常に、ふと、えも言われぬ感情に襲われ心が揺らいだ。
発作でもないのに胸が苦しくなり、悲しくないのに涙が出そうになり、身に覚えの無い感情に困惑した。
そのような時にやってくるのが日中にも立ち寄った淡い光の飛び交う巨木の広場だ。
包容力のある太い幹に背にゆっくり預け、暖かな日差し水の香りを含む風、足元に咲く草花の香りで心に広がった不安のさざ波がゆっくりと凪いで行った。
そして色とりどりの小さな光が慰めるように私周囲を舞うのを見て知らず笑みが漏れていた。
この田舎町で暮らし始めてから巨木の広場が変えがたい場所となっていた。
母親には何も伝えていなかったが、どこか感づいているのかもしれない。
そして、先ほどの十年前に戻っているという言葉。
今の家に越してからは、昔の話はしなくなったのだから、何か思うところがあって言ったのだろう。
それが何なのか気にはなるけど知りたくない。
いつしか街灯も途切れ、周囲は夜の闇に包まれていた。空は変わらず雲がかかり、一メートル先も見えない。
――少なくとも普通といえる人間ならば
住宅も街灯もなくなるにつれ、ひとつふたつと淡く色づいた光がどこからともなく現れた。
蛍光灯といった人工の光とは違う、例えばアロマキャンドルの炎、散った桜の花びらの後に萌ゆる若葉。優しく頼りなげな色の光が徐々に集まる。
怪奇現象とでもいえるのだろうけど、恐ろしさなど微塵もない。
それに、私以外この光を見る人はいない。
――誰も見えない
蘇った幼い頃の記憶を頭を振って締め出す。
明かりが見えた。
そう遠くない、少し道を登った先だ。
街灯の様な頼りない明かりではなく、家の窓からもれる蛍光灯に似ている。
けれど、すでに民家が途絶えた道を歩いている。
もちろん、スーパーやコンビニもない。
それに、この明かりは人工のものに見えなかった。
例えるなら、見つめるだけで意識が持っていかれるような蝋燭に似て非なる不思議な明かり。
だからといって、吹けば消えるような頼りないものではない。
視界に映る明かりは、赤に橙にゆらゆらと燃える蝋燭ではなく、新雪のように真白く半月のようなドーム状をしていた。
動悸がする。
歩きつかれたのではなく、目に見えない心の部分が緊張し、身体に伝っているような。
けれど、歩みを止めることができない。
ゆっくりと吸い寄せられるように真白い明かりに近づく。
手を伸ばせば届く距離まで近づいて、ふいに足が止まった。
数時間前に休憩した広場。
昼は暖かな日差しと爽やかな風に癒され、夜は星月に見守られ常に静寂の中にある安らげる場所。
真白い明かりは巨木のある広場を囲うように広がっていた。
そして――。
明かりが靄のようで巨木が霞んでいるが、その根元に小さな塊が見えた。
木の瘤ではない。微かに動いている。
もしかしたら危険な生き物だろうか。
夜の時間、自然が深い近辺では野犬の類が出ても不思議ではない。
けれど、躊躇いは一瞬。
いよいよ抑えられなくなった動悸に強く両手を握り締め、一歩進んだ。
足先が腕が額が唇が光を通る。思わず閉じたまぶたの奥が光を感じて熱を持つ。
手を握り締めた状態から少しずつ身体から力を抜きゆっくりを目を開く。
そして、微かに痛みを伴う熱さを忘れるほど目を見開いた。
広場全体に夜明け直前のわずかに青みがかった白い世界が広がっていた。
中心に鎮座するのは、花の季節も裸の枝ばかり目立つ大木。
花びらどころか、木の葉の一枚もない見たことがないそれは、いつまでも冬の木のまま佇んでいるのだと思っていた。
はずだった。
満開の花々が咲き誇っていた。
広場を囲う円の外は変わらず夜の世界で、見慣れた黄色いはずの月は白い明かりを通してか銀色で、巨木が桜に似た美しくも儚げな花を咲かせる。
その根元に一人の子供が腰掛けていた。
たった一本の木が神々しく照らされ、花びらを手に夜空を見上げる姿は、名匠の描いた絵画のようだ。
奇跡の場面の闖入者に気付いたのか、子供が顔を向けた。
雲が切れ、満ちた銀月の光が広場を柔らかく包み込む。
満開の花を咲かせた木はそれ自体が内側から光を放っていた。
そして、見たこともないほどの光の乱舞。
頬に一筋冷たく雫がつたう。
子供と私は幻想的な光の空間で出遭った。
雫が涙だと気づいた瞬間、止まらなくなった。
頭の中は真っ白で、けれど視線は満開の大木と根元に座る子供から離せない。
視界がぼやけるのが嫌で何度も瞬きをして涙を散らすのに、意思とは関係なく後から後から溢れる。
「大丈夫?」
気遣いと戸惑いに満ちた声が聞こえた。
一瞬言葉に詰まり、喘ぐように返事をする。
「平気――」
言った瞬間、喉に違和感を感じた。
「ほんとうに?」
心配そうな子供の声に思わず耳を押さえる。
膜を張ったように聞こえる声がどこか遠く感じる。
なんといえばいいのだろう。
そうだ、シャワーをしていて誤って耳に水が入ったときと感覚が似ている。
そして、どことなく風邪の前兆に近い熱を喉にも感じる。
けれどそれらは一瞬で遠ざかり、後は満開の巨木の下、変わらず不安そうな表情でこちらを窺う子供がいるだけだった。
意識せず流れた涙は意識せず止まった。
「ほんとうに大丈夫?」
子供が発した言葉に違和感を覚えた。
これは……日本語ではない?
確かに日本語として伝わる。
けれど、喋っている言葉自体はまるで聞いた事のない異国の言葉のようで……。
――ホントウニ?
チクリと胸を刺す痛みを感じた。
思わず手を持って行き、服を握り締める。
私は今言葉を発した子供を見る。
十歳くらいだろうか。どことなく中性的な顔立ちだが、やや低い声のトーンや雰囲気で少年だと判る。
「大丈夫だよ」
子供の前で泣いてしまったことが恥ずかしくて慌てて取り繕った瞬間、再度違和感を覚えた。
私は今何を言った?
言葉の意味ではなく声として発せられた音。
大丈夫だよいう意の、日本語ではない、何か別の言語を口にした気がする。
混乱の中、子供が身じろぎをする気配がして顔を上げた。
「良かった……。やっと会えた」
少年は今にも泣きそうな表情で笑っていた。
大きな瞳に形の良い唇。
夜のままの世界では分からなかっただろうけど、髪の色素は薄く、艶やかな銀。瞳は柔らかなラベンダー色だ。
満開の花を咲かせた木にゆったりと背を預け、月光が天の雫のように降り注ぐ中、様々な色の光に浮かび上がる姿はありえないほど美しかった。
夢か幻のような存在。
第一印象はまさにそれだった。
「やっと会えた……。イチキ」
思わず見惚れた私はため息のような安堵の声を聞いて我に返り改めて少年を見た。
日本人とは程遠い顔立ちと纏う色。
膝丈までの外套はデザイン重視のコートというより実用性に重きを置いたマントで、内側に着ている服も刺繍や装飾は一切なく幾重にも重ねて纏い腰のあたりに緩く紐を結んでいる。
ズボンの上から履いたブーツは膝まで覆う皮で、シンプルかつ強度に重きを置いた実用品だ。
イチキというのは人の名前だろう。
何故だろう。内心ため息がこぼれる。
「私は樹里。ごめんね。人違いよ」
「違わないよ」
即答された。そんなに少年の言う人に似ているのだろうか。
「イチキ、こっちに来て。顔をよく見せて」
つい数時間前まで一枚の葉もつけていなかったはずが、今や満開の花の下、明らかに日本ではない国の子供が、私を知らない名前で呼んで手を伸ばす。
考えなくても分かる。
この子供は間違いなくやっかいごとの種だ。
だからといって見なかった振りをして退散することはできない。
相手は子供だ。十歳程度の庇護が必要な男の子だ。
私を見上げる紫の瞳は微かに潤み、伸ばした手は細かく震えていた。
無条件で庇いたくなるような、今にも光の粒となって儚くも消えてしまいそうな小さな姿。
人違いでも一人にさせておけない。
一歩近づくごとにに少年の姿がはっきりと見えてくる。
そして気づいた。
子供の纏う衣装はよれて土埃にまみれ、柔らかそうな頬には一筋の赤い線が入っていた。
「ちょっと君、大丈夫なの?」
残りの距離を一気に縮めて伸ばされた手をつかむと、引っ張られて少年の上に覆いかぶさるように倒れこんでしまった。
子供は幹を背に座っていたので、私は今だ成長途上の小さな身体をサンドイッチ状態に押しつぶしたことになる。
慌てて子供から身体を離そうといたが出来なかった。
背に細い腕がまわっていた。
微かに震えているのが布越しに感じる。
これでは引き剥がせないじゃない……。
先ほどの痛みを堪えた笑みが脳裏をよぎり、私は月明かりに艶めく銀髪を軽く撫でた。
数分経って落ち着いたのか、子供はよろよろと顔をあげた。
そこに涙の跡はない。目も赤くなかったから泣いてはいなかったのだろう。
私は少年の頬に持っていたハンカチをあてた。
軽く首を傾げる子供に、
「そこ、怪我してるでしょう」
少し無愛想な口調で答えてしまった。
「これくらいは大丈夫だよ。だれど、ありがとう」
そう言って笑ったときの表情は子供らしく純粋で私は胸を撫で下ろした。
見たところかすり傷で、もう血も止まり始めているようなので大丈夫なのは本当だろう。
少年はそっと目を伏せて、ハンカチに置いた私の手に自らの手を重ねた。
「けど、ごめんなさい。手巾汚した……」
私より小さな手は冷えて、よくみたら細かい傷が多くある。
私はそっと手の位置を入れかえ、子供の手の甲を包んだ。
「気にしないで。それ君にあげるから、その手の傷もきちんと手当てするのよ」
本当はすぐ家に連れて帰って手当てしたい。冷えた身体を温めてあげたい。
けれどただの散歩から子供連れで帰ってきたら母親にどう説明すればいいのやら。
満開の花の下で出遭った子供で、私をイチキと呼び、なぜか親しく接してくる。
怪我をしており、もう夜も遅いからと連れて帰った。
そう説明すれば、まず子供は交番、私は母から説教だろう。
子供は自らの手を包んだ私のそれをみて笑った。
「大丈夫だよ。このくらいかすり傷でもないよ」
「けど……」
なおも渋る私に少年は仕方ないといった感じで切り出した。
「後でサヤが迎えに来るからその時に診てもらう。それでいいでしょ?」
サヤというのは誰だか知らないが、少年が信頼する人物なのだろう。
既に日は落ちているのだから、とにかく来るなら早く来て欲しい。
私が散歩していなければ少年はまだ一人で迎えを待っていたのだ。
「分かったわ。その代わり迎えの人が来たらちゃんと手当てしてもらうのよ」
少年はこくんと頷いた。
「だからそれまで側にいてね」
ぴったりと寄り添う体温と綻んだ表情に戸惑う。
どうしてこうなった。
言葉もなく木の幹にもたれる。
右手には子供の小さな左手が繋がれている。
少年からすれば会いたかったという人物でも私からすればただの人違いだ。
振りほどくことはできるが、なぜかそうしようと思わなかった。
今は夜で外は暗い。
なのに半円形の光の内側は夜明けに似た明るさで、今にも鳥の囀りでも聞こえてきそうだ。
赤や青、緑に黄色といった色とりどりの光が舞う。
本当に神話かなにかの世界に迷い込んだみたい。
ぼんやりと思っていると、右手がきゅっと握られた。
顔を向けると銀色の旋毛が見えた。
少年は右手に何かを握っていて宝物のようにそれを眺めていた。
私の視線に気づいたのか顔をあげてラベンダー色の瞳を瞬かせるとふわりと微笑んだ。
「これ、お守りなんだ」
灰色がかった黒い石だった。
どこにでもありそうな石より見目麗しい少年の笑顔に目を奪われそうだが、意識は小さな手に握られた存在に向けられた。
「それは……?」
「僕の宝物」
少年は瞬くと小さく笑い、その手を差し出してきた。
「だけど、あげるよ。さっきのお礼」
そんなに物欲しげに見てたのか。
私は慌てて首を振った。
「宝物でお守りなんでしょ。君が大事に持ってなきゃ」
少年は首を傾げて私の目を覗き込む。
大きな瞳に私の顔が戸惑う顔がうつっているようで緊張する。
「そう。宝物でお守り」
少年は追及することなく、もう一度笑うと大事そうに石を懐に仕舞った。
それからも会話らしい会話はなく少年の迎えを待って過ごした。
雰囲気に飲まれているというか何を言えばいいか分からない。
ひとつ息が漏れる。
「イチキ?」
子供は私をイチキと呼ぶ。
しかし私の名は樹里でイチキではない。
そもそも少年とは初対面で、完全な人違いだ。
「どうしたの?」
少年が怪訝そうに私の顔を覗き込む。
ダメだ。まずは誤解を正さないと。
私はゆっくり息を吸うと、密着した身体を離して子供の薄い肩に手を置き、諭すように話した。
「人違いよ」
「違わないよ」
またもや一刀両断された。
なんでそんなに強気なのだろう。
イチキという人が余程私と瓜二つなのだろうか。
私自身は若いころの母親にそっくりだと言われるけど。
「だって言葉が通じる」
言葉?
私は日本語を話しているはず……。
けれど声として空気を震わせるのは全く違う異国の言葉。
少年の言葉も同じく聞いた事のない言葉だけど、意味は日本語として通じる。
そういえば――わけも分からず大泣きした後、耳と喉に感じた違和感を思い出す。
「外国語じゃないよ。ちゃんとした自分の国の言葉」
思わず繋いだ手を解いた私は少年の細い身体に抱きつかれて、頭に小さな手を添えられる。
耳のあたりで声変わり間近の少し低めの声が響く。
「僕たちの世界の言葉」